一章 (2)
部屋の中は暗かった。
すべての窓には厚いカーテンがかかり、外からの光をさえぎっている。ただそれだけで、こんなに真っ暗になるのは不自然なので、魔法の力が作用しているのだろう。
部屋は、広くはなさそうだ。
中央にはテーブルがあり、燭台には蝋燭が灯されている。それとは別に、小さな火がゆらゆらしているのは、部屋を満たしている香りの源だろう。
明かりをさえぎり、香りで満たし、そして無音。もちろんこれも魔法だ。
どこの国なのか、どんな場所なのか、天気は、時間は――。
すべて切り離されている。
ここは、ここでしかなく、ほかのなんでもない。
テーブルの前で、人影がゆらりと動いた。
蝋燭の明かりの中で、白い手が滑らかに動く。なめらか、ではあるがきびきびとしている。繊細というよりは。
「神経質だな、スピカは」
「……気が散る。黙っていろ」
壁際からの声に、テーブルの前の人影がぶすっと言い返した。白い手は動いて、テーブルになにかを並べる。並べ終わると白い手の主は、ふーっと息を吐いた。
「そういうのはキャロラインどのが得意なのだろう? やってもらえばいいだろうに」
「わたしだってできるさ」
「君に出来ないとは言ってないよ。で、結果は?」
コツコツと足音がして、壁際から明かりの中へと人が踏み込んでくる。白いローブに、縫い取られたなにかを描いてると思しき大小の飾り石がきらきらと光る。背の高いらしいその人物がテーブルを覗き込んだ。
テーブルには四枚のカードが伏せられていた。上下二段、上に一枚、下に三枚だ。
白い手が再び伸びて、並べたカードを表にする。最初は、一番上のカード。
「……『運命の輪』?」
めくった当人が疑問の声を上げる。
「ほう。どういう意味だろうね」
「まだまだ問題が出てくるということか? いまはまだ序盤だと言いたいのか!」
「落ち着きたまえ、スピカ。君が向いてないのは、この読み取りのほうだね」
「やかましい。じゃあ、あと挙げられる意味はなんだ」
「この位置は全体像を示す場所だよ。『運命の輪』が司るものといえば、四聖獣とか」
「大雑把な道しるべだな」
「ああ、このカードは君が置いたのか。それならもっと端的だね。端的に絞り込めそうなものといえば……歳星かな?」
出てきた単語に、二人は互いの顔を見合わせた。
そして、スピカ、と呼ばれている白い手の主は、手と同じく白いその顔で、眉をひそめた。対してもう一人はくすくすと笑い出した。
「間違いない。問題を抱えているのは、我ら歳星宮だ」
「笑うなアーク、ちっともおもしろくない」
「いいや。占いが間違っていなくてなによりだ」
「もうわかったから黙れ。次をめくるぞ」
そしてスピカの白い手が、次のカードに伸びる……――。
一年前に王立学院を首席で卒業したアルス……アルスラーン・ガルツカントは、周囲の期待通り騎士団へと入団した。
とはいえ、期待の星だのなんだの言われても、最初は下っ端から始まるのは当然だ。
それに、期待の星、という表現はなにもアルスだけに投げかけられるわけではない、ということもすぐにわかった。
よってまあ、学院でちやほやされて少しばかり閉口していた頃よりは、下っ端として雑用を押し付けられる現在の騎士団での立場のほうが、実は気楽で良かったりする。周囲からどう見られているのかは知らないが。
で、今日もそんな押し付けられた雑用を終わらせると、一緒に仕事をしていたはずの団員は、先輩だけでなく同期生までいなくなっていた。この一年で、すっかり慣れたけれど。
これに問題があるのか、ないのか、これまでの人生で言われたことはないけれど実は自分は要領が悪いのか、なんでもそつなくこなしてきたアルスにはそれすらもわからない。思い浮かばないし、別段変えたいとも思わない。出来ないような無理難題を押し付けられているわけでもないし。
そんなことをなんとなく考えながら、アルスも帰途へ着くために玄関ロビーへと向かった。
けれど、足を止めてしまった。
だれもいないロビーに、その人がいたのだ。
もし初めて目にするのがこの瞬間だったら、夢か幻かと思ったかもしれない。
彼女は、先日とは別のドレスを着て、白い石造りの騎士団のロビーを優雅に歩いている。
ものすごく場違いだ。
彼女……名前はなんといったっけ。
そのとき彼女がなにかに気を取られた。アルスに気づいた……のではないようだ。
視線を追いかけて見ると、奥からちょうど人が現れた。こちらは魔術師のローブを着ている。ここに魔術師がいることも十分珍しいのだけれど、アルスは別のことに驚いていた。
その魔術師は銀色の髪をしていて、それが友人のイシルにとても似ていたのだ。まあ、イシルが友人なのか、という論点はここでは置いておくとして。
「キャロル……キャロライン、来たのか」
「ええ、スピカどの。遅いのでなにか手こずっておいでかと」
「まあそうだな」
銀髪の魔術師は頷いて、それからおもむろにアルスのほうを見た。いや、睨まれた、のか?
「騎士殿がこんなところでなにをしておいでか」
そして鋭く誰何された。
アルスは慌てて上位者への礼を取る。
「はっ、自分は勤務明けで、帰るところであります、魔術師さま」
答えると、それまで無関心だった彼女のほうが、ちらり、と顔半分でアルスを確認した。
その表情に銀髪の魔術師はなにか気づいたようだ。
「どうしたキャロル、知り合いか?」
「多分。わたくしの友人のお友だちかと。先日アークトゥルスどのと資料を探しに来たとき、手伝ってくれた方ですわ」
彼女、そう、キャロルだ、彼女がそう言ったので、なぜかアルスはほっとした。
あのとき結局一度も目を合わさなかったので、もしかしたら覚えられていないのかも、と思っていたのだ。
「ああ、アークが言っていたな」
「それに」
キャロルはくす、と微笑んだ。銀髪の魔術師はじろ、と見返す。
「なんだ」
「ここは騎士団ですから、誰何されるべきは我々のほうであって、彼ではありません」
「……そうだったな」
なんだろう。
この銀髪の魔術師は、外見の特徴だけでなく、性格もイシルと似ているような。
そして、そんな魔術師を前に、キャロルが微笑んでいる。
先日ラルフやもうひとりの背の高い魔術師の前では、全然笑わなかったのに。
「それでスピカどの。こちらに来られた目的のほうは?」
キャロルが話を元に戻すと、途端に銀色の魔術師スピカさまは、むっとした。
わかりやすい表情。
そして。
「騎士団の連中は規律ばかりで話が前に進まん! カストルにつなげばわかると言っているのに!」
「つまり、カストルどのには会えてないのですね」
「そうだ!」
ぐわっとスピカさまが噛みつくように答えるのに、キャロルはほとんど動かない。
息があっている……のか?
「でも、わたくしたちは急いでいるのですけど」
「わかっている!」
「ですから、最近覚えた裏技があるので、早速使ってみようかと思いますの」
「……裏技?」
キャロルが少し微笑んだ。いたずらっぽい微笑み。
こんな表情もするのか。
以前会ったときはとにかく無表情で、無口で、冷たい印象だったのに。
そんなことを思いながら眺めていたら、そのキャロルが、片方だけの目でアルスを見た。
「えっ?」
一拍おいて、アルスは驚いた。
いままで彼女の中で自分は、空気か、あるいはその辺の椅子か花瓶か、くらいの認識だと思っていたのに、急に人間になったような気持ちだ。
「あなたにお願いしたいのだけど」
「はい?」
「ですから、カストルどのへ直接、お取次ぎをお願いしますわ」
それから、二人の魔術師を、騎士団本部の地下に案内したのは、約半刻後のことだ。
案内といっても、アルスにとって地下に踏み入るのは初めてだったのだけれど。
むしろスピカさまのほうが詳しいらしく、途中からは見事に立ち位置が逆転していた。
なので、その部屋の扉を開けたのはスピカさま。
後ろからアルスがいそいで追いかけて入り、ドレス姿のキャロルは終始変わらない優雅な調子で最後に入ってきた。
彼女が部屋の扉を閉めたときには、すでにスピカさまの訴えは終わっていた。
「インニルディアか……おや、キャロライン。今日はスピカとご一緒ですか」
カストルは騎士団服の長いマントを揺らして立ち上がりながら、ようやく最後の同行者に目をやった。
キャロルはドレスをつまんで優雅に挨拶をする。
「ごきげんよう、カストルどの。スピカどのひとりでは、直進しかできないもので」
そんな冗談を口にすると、騎士は笑い、銀の魔術師はむすっとした。
……やっぱり、この方はイシルと似ている。
「それで、インニルディア戦の資料だね? 西の資料館にはなかったのか」
「探している類のものがなかったのですわ。あそこは図書室みたいなものでしょう?」
騎士、とは、魔法の素養を持ち合わせていない者が多い。
というか、ほぼ全員だ。
だからなのか、王宮の反対側にその本拠地を置く魔術師、あるいは魔法使いたちとは、疎遠である。
アルスも例に違わず魔法の力は皆無で、だから騎士たちが魔術師を煙たがる理由はわかる。
理解ができない相手なのだ。
とはいえ、王国において騎士と魔術師は防御の両翼。
現在は周辺国と戦争状態にはないが、それがこの先もずっと続くとは限らない。
アルスたちの世代はもちろん、騎士団の教官でさえ、実戦を経験したわけではない。
それでも剣技の訓練をし、陣形を覚える。
だからアルスは、あの別荘のような資料館で、過去の戦史を読んでいる。
(インニルディア戦、か……)
カストルは、騎士団と魔術師との連絡窓口みたいな人だ。
だから魔術師とも親しい。
いや、親しかったから連絡役になったのか?
スピカさまが、騎士というやつは、とさっきから同じ文句を繰り返しているのも、慣れたように笑顔で受け流している。
「ああ、アルスラーンはどうする?」
扉へと向かっていたカストルが、アルスの前で思い出したように足を止めた。
突然だったので、アルスは驚いて息が止まってしまった。
ぶつぶつ言っていたスピカさまも、口をつぐんだ。
キャロルは……かわらないように見えた。
ふーっと静かに息を吐いて、アルスはカストルを見返した。
先輩騎士は、手に鍵束を持っている。
「……どちらに行かれるのですか?」
「ああ、書架だよ。ここの地下にある。すぐそこさ」
「同行してもよろしいので?」
「いいよ」
カストルが軽く頷いたので、では、と応じようとしたら。
「いいのか」
スピカさまが鋭く言った。
なんだか、ひやっとした。
見えない刃を突き付けられたような。
けれどカストルはふふ、と笑って扉を開けた。
「規則ではたしかに禁止だが、わたしはその辺の頭のかたい騎士とは違うのでね。ついてきたまえ、アルス」
「はいっ」
心臓が、おかしな鼓動を打った。
急に正式な名前を呼ばれたからだ。
一般市民としてはやや奇妙なアルスの名前は、だから通称でもかまわないという暗黙の了解があるのだけれど。
「ですって、スピカどの。負けですわね」
キャロルの声にはっと我に返る。
むすっとしているのは、騎士は頭がかたいと文句を言っていたスピカさま。
キャロルは微笑んで、アルスの前を通り過ぎた。
それからずんずん歩いていくスピカさまのあとを、アルスは急いで追いかけた。