一章 (3)
その、奥まったところに、石の扉は重々しく鎮座していた。
カストルは鍵束をじゃらじゃらと振ると、あまり迷わずに一本を選び出した。
よく訪れるのだろうか、と思ったけれど、鍵が鍵穴に差し込まれると、ギィギィというこすれる不快な音。
思わず耳をふさぎたくなるのを、こらえる。
「ええい! そういう古典的な鍵を使うなら、油をさすとか手入れをしろ!」
けれどこらえきれなかった人がひとり。
言うまでもなくスピカさまだ。
「古典的ではなく一般的と言ってくれたまえ。我々は魔法は使えないのだから」
ギギギィとさらに音を立てて、鍵が開くと、石の扉はやっぱり重々しく動いた。
その奥は真っ暗だった。
自分より長身のカストルとスピカさまの後ろからでは、中はまったく見えない。
「明かりは任せたよ」
「用意はないのか」
「急に来られて用意どころではなかったのでね。それに、我々の用いる古典的な蝋燭ではご不満でしょう?」
「そんなわけあるか! 燭台くらい普通に使う!」
どうやらカストルの台詞はすべて嫌味らしい。
と、そのとき、アルス同様、二人の後ろからただついてきているだけに見えたキャロルが、静かに一歩前に出た。
「明かりはわたくしが灯しますから、スピカどのは資料のほうを探してくださいな」
そしてその言葉が終わると同時に、彼女たちの頭上に光が現れた。
まるで見えない巨人の手が、カンテラを掲げているかのようだ。
アルスは初めて、目の前で魔法というのを目にした。
いや、魔法使いと名乗る、いわゆる魔法芸は見たことがあるけれど、あれは半分魔法で半分仕掛けのある手品だ。
いまキャロルは、魔法の杖や呪文といったものを一切使わず、ポケットからハンカチを出すかのように、明かりを出した。
これが本物の魔法。
国内に数十人しかいないという、職業としての魔術師。
アルスが驚き感動で魔法のカンテラを見上げていると、三人はすたすたと書架へと入っていった。
明かりもそれに合わせて動いていく。
アルスは急いで追いかけた。
書架にはひたすら蔵書が詰め込まれていた。
騎士団にこんなに本があるとは知らなかった。
が、本の背表紙を目で追っていたスピカさまが、すぐに機嫌悪そうに振り返る。
「おい。もしかしてと思うが」
「ええ、おっしゃる通りです」
最後までいうのを待たずに、カストルが肩をすくめて答えた。
「ここは騎士団ですよ? 書架の整理をするような騎士がいると思いますか?」
嫌味、ではなく、単なる事実のようだ。
アルスはそれなら自分がしてもよいけど、と思ったけれど、今はいうときではないか、と口にはしなかった。
「仕方ありませんわね、スピカどの。自力で探しましょう」
淡々と、キャロルが提案する。
怒りも呆れも感じられない。
スピカさまもすぐに元の様子に戻って頷いた。
「ああ。となると人手があったほうがいいな。すぐにアークを呼ぼう」
「手分けします? ではわたくしは奥から」
「わかった」
くる、とスピカさまが背を向けると、頭上の光がなんとふたつに分かれた。
それぞれ歩き出したキャロルとスピカさまの頭の上を、それぞれぷかぷか浮いている。
手伝うつもりはないのか入口へ戻っていくカストル、少し先でごそごそし始めたスピカさま。
そしてキャロルはというと、すたすたと奥に向かって行く。
アルスは少し迷ったけれど、すぐにキャロルを追いかけた。
これからなにかの資料を探すらしい。
「あの、キャロル」
追い付いて声をかけると、彼女はちら、と片方の目でアルスを見た。
「はい?」
「なにか資料を探すんだよな? 俺でも手伝いになるかな」
そう申し出ると、彼女は少し考えるように沈黙した。
「あなたは……」
そしてキャロルが口を開いたのは、一番奥の書架に着いてからだった。
「あの騎士団の図書室にはよく行っているのかしら」
「図書室? て、離れの資料館のことだよな。ああ、よく行ってる」
「なぜ?」
「なぜって……資料を読むために、だけど」
キャロルはアルスのほうは見ずに、一番奥の大きな書棚をざっと見渡してから、両手をあげた。
いや、棚にかざした、のだろうか。
口を閉ざした彼女が書棚ではないどこかを見つめていると、かた、かた、と頭上で音がし始めた。
なんだ、と思って見上げると、数冊の本がぷかぷかと書棚から抜き出てきた。
と思ったら今度は、別の棚の本がぐぐーっと一方に寄せられ、浮いていた本が一斉にその隙間に飛び込んでいく。
別のところでは、同じ種類の本が三冊飛び出し、くると並び順を変えて、もとの場所に収まる。
(これは……)
唖然としてしまった。
キャロルは魔法で、本の整理をしているようだ。
この大きな書棚の本を一度に把握したのだろうか。
そして本を浮かせたり動かしたり並べ替えたり、そんなことができるのか。
「インニルディア戦」
急にキャロルが呟いたので慌てて振り向くと、明かりと共に隣の書棚に移動するところだった。
「え?」
「あそこの資料をあなたはだいたい把握していたようだけれど、インニルディア戦という言葉に覚えはあって?」
話はどうやら続いているようだ。
「いや。そんなふうに表現されている戦争、争いは見たことがないと思う」
キャロルは立ち止まり、また書棚に手をかざした。
まるで掌が大きくなって本の背表紙をひとつずつ確認しているようにも見える。
上の方からぴょこんと本が一冊飛び出してくる。
そしてすーっとアルスの前にやってきた。
「それ、さっきの棚の左下に戻しておいて」
浮いている本に手を伸ばすと、すとんと落ちてきた。
さっきの棚の左下……アルスが数歩戻ってみると、なるほど同じ本がある。
これは、四巻か。
彼女の言う通り戻してから振り返ると、本が宙を飛び回っていた。
不思議な光景だ。
指に糸を結んで人形を動かす、操り人形に似ているように思われた。
浮いている本がすべて収まると、キャロルは次の棚に向かう。
これでは自分が手伝えることは、あまりなさそうだ。
「それで、インニルディア戦ときいて、どう思ったかしら」
「え? えっと……」
短い移動の間、話しかけられる。
「インニルディアは東の隣国。学院で習った歴史では、かの国と戦争をしたことはないはずだ」
「そうですわね」
「我が国は騎士と魔術師の両戦力が備わっている、と習うけれど、かの国は軍事力とは武力のみ、つまり軍と呼べるだけの魔法の戦力を有さない、と習ったな」
「そうでしょうね」
キャロルは頷いてから次の書棚に手をかざす。
アルスは邪魔にならないようそれを見ている。
ふとキャロルが、一冊の本を自身の手元に呼び寄せた。
手に取ってぱらりとめくってみる。
それからその本をアルスに差し出した。
「持っていてくださる?」
「ああ」
受け取ると、それはそれは本というより、昔の誰かのレポートのように見えた。
著者の名前は知らないものだ。
「インニルディアは武力の国。もし戦争をするなら、騎士団が出ていくのか? それよりも、魔術師が得体のしれない魔法で攻撃した方が、有効なんじゃないのか?」
ふと、アルスは呟いた。
だって、こんなふうに本の整理をしてしまう相手に、剣や大砲で勝てるのだろうか。
キャロルの魔法の手が本を棚に押し込んでから、彼女は少し、アルスを振り向いた。
はっとした。
あわてる。
「あ、いや、ごめん」
「そう感じるのは理解できるから大丈夫」
魔法のことを得体のしれない、と言ったこと、そのことに対してあわてて謝ったことを、キャロルはちゃんと理解した。
ひょっとしたら彼女たちは、いつも、ずっと、そういう目で見られているということだろうか。
そしてそれを自覚している?
それはなんだか……つらくはないだろうか。
「インニルディア戦というのは、インニルディアと君たち魔術師との戦いで、だから騎士団には記録がないのか?」
キャロルは本棚に向かって魔法を使っているところだったけれど、アルスは思わずたずねてしまった。
けれどそれで彼女の手元が狂うこともなく、なんだか重そうな本が一番下の段にゴトゴト収まった。
「われら騎士団では全然さっぱり手が出なかった。あとは魔術師の連中にまかせよう、という記録は残さないの?」
「う……」
キャロルが歩き出すのを、頭上の光と一緒に追いかける。
どう、なんだろう。
それはそれで記録を残す意味はあると思うけど。
「騎士団ってそんなに役立たずかしら?」
「えっ?」
「剣と剣の戦いなら、なにか理由がないと大差はつかないと思わない?」
「理由ってどんな?」
「そこは自分で考えなさいな」
「あ、ああ。圧倒的な戦力差、人数か、武器の種類や精度、あとは地理的有利不利、気象条件、それから……」
優れた指揮官、と思ったけど、口にするのは憚られた。
自分は下っ端だ。
「英雄がいるか、とか。嘘でも大義名分があって士気が高まってる、とかね」
まるでアルスの心の声が聞こえたかのように、彼女が続きの言葉を拾い上げた。
どうやら会話をしていても、魔法で本の整理をするという作業にはあまり影響はないらしい。
「さあ、ではどうして騎士団には、インニルディア戦、なんて言葉は伝わってないのでしょう」
「え? えっと……いまの会話で答えが出せるのか?」
「さあ、どうかしら」
人を食った答えだ。
なぜ記録がないのか。
記録する必要がなかったから。
記録する、内容がなかったから?
「騎士団は、戦っていない?」
「正解」
キャロルはあっさり答えた。
騎士団が戦っていない戦い。
では彼女たちはその騎士団で、なにを探しているというのか。
「キャロライン!」
入口の方から怒鳴り声がした。
スピカさまは、いつもあんなふうなのだろうか。
本当に、イシルと似ている。
そしてずんずんと足音が近づいてくる。
魔法の明かりが浮かんでいるから、互いの位置はすぐわかる。
「なんですの」
スピカさまが姿を現してから、キャロルは淡々と応えた。
「アークは来られないというがどうする」
「なら見つかったものだけお借りして、戻りましょう」
そういうと、彼女は分厚い冊子を手にした。
どうやらこの書棚からちょうど抜き取ったらしい。
「なにか見つけたのか」
「なにを見つけられるかは、このあとです」
キャロルが抱えた本が重そうだったので、アルスは彼女に近寄って、その本を奪い取った。
「ん?」
キャロルがおどろいてアルスを見上げる。
珍しく真正面から彼女の顔を見て、アルスはぎくっとした。
左右で異なる色の瞳。
「荷物持ちくらいなら出来るから」
あわてて目をそらす。
彼女が悪いわけではないけれど、アルスは少し、苦手なのだ。
「なら持ってもらえ」
スピカさまが歩き出す。
キャロルがそのあとに続く。
アルスはふうっと息を吐いて歩き出した。
この国には、瞳の色について、とある迷信がある。