一章 (4)
憶えているのは、母の悲鳴だ。
このまま引き離されて、もう二度と会えなくなるんじゃないかと、子ども心にも恐怖を覚えた母の抵抗。
おとなしくて物静かな母が、あんなふうに泣き叫ぶなんて、いま思い返しても夢だったのでは、と思うことがある。
それくらい記憶もあやふやな幼少期に、アルスは、とある検査機関に送られたことがある。
左右の瞳の色がちがうのでは、と疑われたのだ。
結論を先に言うと、アルスの瞳は左右とも同じ色をしている。
単に立ち位置による光の加減で、片方の目だけに光が当たっている数分間が、だれかに目撃されその機関に通報され、そして認定されてしまったのが、問題の始まりだった。
たったそれだけのあやふやな証言で即座に機関が動いたということは、それなりの地位か権力のある人物によるものと思われるが、それがだれだったのかアルスは知らない。
ひょっとしたら父の政敵とか、そういう筋だったのかな、と考えたこともあったけれど、答えは出なかった。
両親は知っているのかもしれないが、耳にしたことはない。
現在ではこの瞳の色の違いも生まれつき、偶然、たまたま、という考え方が広まっているが、ほんの十数年前までは、まだ、それが特別なことだと捉えられていた。
理由は我が国の始祖の伝説に由来する。
我らがオラディオン王国は現在は共和政であるが、かつては王政だった。
といっても王国の始祖と言われている王は複数いて、五人、あるいは七人の王によって治められていたといわれている。
そのうちの一人、魔術に秀でた王がいて、かの王がヘテロクロミアだったという。
よって、左右の瞳の色が異なるのは、始祖の王、魔術師の王の力を受け継ぐ証だ、と信じられていたのだ。
アルスの場合、魔法に関する素質はまったくなかったし、そもそも瞳の色がちがうなんてこともなかったので、ただの見当違いだったのだが。
そんなわけで、アルスは、キャロルの瞳を正面から見るのが少し苦手なのだ。
その瞳がそうさせるのかは知らないが、彼女も人を真っ直ぐに見ないようにしているように感じる。
気のせいだろうか。
数冊の本を抱えたスピカさまの後について、アルスも騎士団のロビーへと戻ってきた。
先頭をずんずん進んでいくスピカさまの後ろで、キャロルが振り向いた。
外からの光と、室内の暗さで、彼女の表情が良く見えない。
「ここまででいわ、ありがとう」
そういって手を伸ばしてくる。
「いや、いいよ。俺が運ぶ」
「でもあなた、帰るところだったのでしょう?」
「ああ、だから大丈夫だ」
仕事は終わった。
急いで帰ってしなければならないことはなにもない。
建物の外まで出ていたスピカさまが、後ろのふたりが立ち止まっていることに気づいて振り向いた。
「何をしている」
「彼の手伝いはここまででいいと思いますの。そうでしょう?」
「まあたしかに。騎士団から出れば騎士に用はない」
用はない。
はっきり言われると、言い返す言葉もないとはこういうことか。
「あら。感謝はしていますのよ。取り次いでくださってありがとう。わたくしたちは魔法宮に戻りますので、ここまででよろしくてよ」
キャロルが丁寧にお礼を言う。
つまり、自分はここまでだ。
王宮や執政宮をはさんで、騎士団とは反対側にある魔法宮。
騎士は王宮やその周辺の警邏にはあたるけれど、魔法宮だけはその範囲ではない。
魔法も使えない騎士による警備など、必要がないということだろう。
互いに互いの存在が必要ない、異質なものと捉えている。
それが騎士と魔術師の関係だ。
アルスは本を彼女に渡した。
彼女はよいしょ、と本を抱えると、それではごきげんよう、といってドレスを翻して背を向け去って行った。
なぜだろう、お礼は言われたけれど、まったく役に立ったような気がしなかった。
「え? キャロル、来てんの?」
翌日。
偶然出会ったラルフの反応に、アルスは驚いた。
友人のラルフは、いつもなぜそこで会うのかわからない、という場所で出会うのだが、そのこと自体にはもう慣れてしまって、ごく普通に挨拶を交わした。
それが、騎士団本部の前だった。
「来てる、というか、昨日来ていた、というか」
「いやそうじゃなくて。まあいいや。昨日、ここに来てたんだ?」
「ああ。スピカさまと一緒に」
「ふうん?」
ラルフが考えを巡らせて首をかしげると、その明るい色の金髪がぴょこぴょこと揺れた。
と思ったら、ぱっと顔を上げこちらに向かってぱちんとウインク。
「なあアルス、これからキャロルに会いに行かね?」
「え……ええ?」
おどろいたアルスが返事をするより前に、ラルフは肩に腕をまわしてさっさと歩き出す。
連れ立って、というよりは、引きずられるようになる。
彼女に会いにいくのはかまわないけれど、彼女は魔術師。
会いに行って、会えるものなのか、アルスにはまったくわからなかった。
魔法宮。
ふたりはその前に立っていた。
王宮を中心とした一連の施設の中で、最も東にある建物だ。
一見白っぽいのだけれど、騎士団や神殿のような白亜ではなく、使い込まれた象牙のように、くすんだような黄色っぽい色をしている。
曲線はなく、等間隔に窓が並ぶ箱のような建物だが、屋上には丸い塔があるように見える。
見張り塔なのか礼拝堂なのか、まったくわからない。
というのも、高いのだ、魔法宮というのは。
初めて間近までやってきたアルスは、そんな魔法宮を見上げながら、違和感を感じ、そしてすぐに理由を思いついた。
窓が一つも開いていない。
季節は春。
こんなに天気のいい日に、騎士団や執政宮ならあちこちの窓が開け放たれて、風が吹き抜けていることだろう。
けれどこの場所は、そんな風を拒絶しているように感じる。
「アルスー、来いよ」
呼ばれてはっとした。
ラルフはそんな違和感など覚えないのか、正面入口と思われる扉に手をかけている。
「開けたらさっと入ってさっと閉める。それが魔法宮のルールなんだってさ」
「え?」
ちがった。
違和感を感じないのではなく、開け放ってはいけないという規律を知っているのだった。
「わ、わかった」
「じゃあ行くぜ。せーの!」
王宮施設のひとつに入るのには、とてもおかしな掛け声だったけれど、ラルフは自身のその掛け声とともに扉を開け、文字通り飛び込んだ。
だからアルスも遅れないように後を追った。
騎士である自分が魔法宮に入っていいのか、という疑問を、考える暇もなかった。
内部は……想像よりも豪華だった。
というのも、外観は箱型の飾り気のない建物だったので、もっと事務的というか、いかにも研究室のようなところを想像していたのだ。
けれど二人が飛び込んだ玄関ホールは、広くて明るくて、ちょっとしたパーティなら十分催せそうな空間だった。
「いらっしゃいませ。どのようなご用件ですか」
声をかけられ、二人は声の主を探した。
アルスとラルフは二人揃って内部見学に集中してしまっていて、どこに人がいたのかわかっていなかったのだ。
けれど、その人はすぐに見つかった。
当然と言えば当然だが、入って正面やや左に、受付らしい席があり、そこで立ち上がってこちらを見ている人がいた。
魔術師のローブではなさそうだけれど、ラルフのような政務官とも違う服装。
魔法宮の制服なのだろう。
年齢も、身分に応じたマントの長さも、自分と同じくらい。
少しほっとする。
「えーっと、キャロル・キャロラインさまに面会を」
ラルフが彼女の名を口にした。
ラルフとキャロルは同級生という話だけど、ラルフはいまキャロルに敬称を付けて呼んだ。
やはり自分のような新人とは違うようだ。
けれど、魔法や魔術師のことはよくわからないが、学院を卒業してほんの数年で、そんなに上位の魔術師になれるのか。
「面会時刻のお約束は?」
「時間とかは決まってないっす。いつでもいいって言われたので」
ラルフがさらさら答えているが、約束なんかしていないと知っているアルスはひやひやだ。
けれど受け付けはそうですか、と頷いて、机の上にあった水晶球に手をかざした。
少ししてから水晶球がぼんやりと光る。
アルスはこれをどこかで見たことがあるような気がした。
魔法なんてまったく縁がない自分が、どこで見たのだろう。
「キャロラインさま、面会の方がお見えです。えっと……政務官と、騎士?」
そういえば名乗っていなかったこちらのことを、受付は上から下までまじまじと見て首をかしげながら言った。
その瞬間、机の上の水晶球が、ぱっと光った。
と、同時に。
『馬鹿者! それが来客に対する言葉遣いか!』
聞き覚えのある声が大声で響いた。
受付の机の向こうでは、制服の若者が平伏しそうな勢いで謝っている。
あの声はスピカさま。
それで思い出した。
騎士団の書架で、スピカさまが水晶球を持っているのを見かけたのだ。
で、スピカさまのお説教が終わらないのだけれど、俺たちはどうしたらいいのだろう。
少し困って立ち尽くしていると。
「スピカどのは間違ってはいないけど、ちょっと声が大きすぎるわよねぇ」
「うわっ!」
突然、後ろからその声がして、アルスとラルフは飛び退いた。
そこにはドレス姿のキャロルが立っていた。
「やあキャロル。君が来てるってきいて、押しかけちゃったよ」
ラルフがウインクしながら言った。
あ、まただ。
アルスは気づいた。
キャロルが来てる、とラルフは言う。
ここは魔法宮で、彼女は魔術師なのだから、彼女がここにいるのは当然だ、とアルスは思うけれど。
キャロルが来てる、とラルフは言う。
それはまるで、いつもは彼女はここにはいないみたいではないか。
いつもは……いないのか?
「昨日のことをもう聞いたの? 本当にお友だちなのね」
「本当にってなんだよー。そう言ったじゃん」
「あらごめんなさい。いま、ちょっと取り込んでるのだけど、時間があるなら部屋まで上がってきてもらえるかしら」
「いいよ。ってむしろオレたち邪魔じゃないの?」
「あら平気よ」
取り込んでいる、というのに部外者を呼び入れてもいいのだろうか。
アルスは一瞬迷ったけれど、階段に向かうキャロルとラルフの背中をしばし見つめて、それから意を決して自らも足を踏み出した。