一章 (5)

 その廊下の両側には、ずらりと扉が並んでいた。
 だから一瞬圧倒された後、懸命に彼女のあとを追いかけたので、立ち止まったのが端から何番目の扉の前なのか、アルスにはまったくわからなかった。
 キャロルはその扉の前で一度立ち止まり、ラルフとアルスを確認した。
 アルスはその視線の意味がわからなかったのだが。
 ラルフはぱちんとウインクして、
「さっと入ってさっと閉める、でしょ?」
 魔法宮に入るときと同じことを言った。
 なるほど、だからこの廊下は、こんなに静かなのだろうか。
 この沢山の扉の奥に、人がいるのかいないのか、それすらもわからない。
 感じさせない。
 そしてキャロルは、ラルフのように号令をかけることはなく、その扉を開けた。
 隙間に滑り込むように中に入る。
 ラルフが続く。
 もちろんアルスもいそいで続き、入ると同時に振り返って、急いで扉を閉めた。
 ふう、と息を吐く。
 やたら緊張するのは、やはり自分には縁のない魔法にかかわることだからだろうか。
 これで良いのか悪いのかが、自分で判断つかないというのは、落ち着かないものだ。
 そして、アルスは振り向いた。
 ようやく部屋の内部を目にして……思わず背筋が伸びた。
 キャロルがちょうど、ソファに腰を下ろしたところだった。
 その彼女を含めて四人の魔術師が座ってた。
 中央になにか見たことのない模型のようなものがあり、それを取り囲むようにソファが十字に配置されている。
「やあ、君たちか」
 ごく自然に声をかけてくださったのは、アークトゥルスさま。
 騎士団の小さな離れの図書室で、アルスが案内をした相手だ。
 赤毛で背が高い。
 アルスはラルフと一緒に礼をとる。
 もうひとりはスピカさま。
 騎士団地下の書架にご一緒した、銀髪で、よく怒鳴る人。
 そうだ、魔法宮の玄関でも、水晶球越しに怒鳴っていたじゃないか。
 でもいまは、不機嫌そうにむすっと黙り込んでいる。
 そしてこちらの入口には背を向けて座っている方が、ちらりと振り向いてアルスたちを見た。
 薄い金色の髪をした、こう言ってはなんだが、ここにいるほかの魔術師に比べると特筆する特徴のない感じの人。
 ただ、白のローブを着ておられるので、魔術師であることは間違いない。
 部屋に入ったあと、キャロルはごく当然のように、一番奥の席に座った。
 おそらくもともとそこに座っていて、アルスたちを迎えに来てくれた後、元の席に戻ったのだろうことはわかる。
 それにしても、アスルにだけではなく、友人であろうラルフにさえ何も言わない。
 たとえば椅子をすすめるとか、あるいは用件を訊ねるとか。
 まあ、訊ねられても用件なんてないのだけれど。
 それともラルフにはあるのだろうか。
 ちら、と隣の友人を見ると、まるでアルスのような疑問は何一つ感じないのか、扉から一歩離れた壁際に立って、おもしろそうな表情を浮かべ、魔術師たちの会議を見守っている。
 アルスはふーっと息を吐くと、ラルフとは扉を挟んで反対の位置に立った。
 騎士が警護や警備の仕事で立つのと同じ場所。
 ということは、自分には似合いなのかも。
「お話はすすみました?」
 優雅に座ったキャロルが、アークトゥルスさまとスピカさまを交互に見た。
 答えたのはアークトゥルスさまだった。
「全然。スピカは門番にお説教したあとずっとこの様子でね」
 そういって顎に手をあて苦笑する。
 門番、というのは、魔法宮の受付のことだろうか。
 不思議な呼び方だ。
「あらそうですか。まあ、じゃあすすめますわよ、スピカどの?」
「ああ」
 むすっとしていたスピカさまは、その雰囲気に反してごく普通に頷いた。
「では頼むよ、デネボラ」
 アークトゥルスさまが促す。
 するとそれを待っていたかのように四人目の魔術師が口を開いた。
 デネボラさまと言うのだな、とアルスは記憶する。
「異常を検知した場所は広範囲に及んでいます。東都だけではありません。が、首都カピトリスには現在のところ影響はでていないようです」
「それは良かった」
「当たり前だ。なんのために各都がそれぞれに結界を張っていると思っている」
「もちろん首都防衛のためだね」
 なんだかなあ、とアルスは思った。
 スピカさまが、騎士団の同僚のイシルに似てる、と思うのは何度目だろう。
 それを軽くあしらっているアークトゥルスさまを、自分も見習おう、とアルスはそっと考える。
「それで、東都管轄の結界の状態は?」
 スピカさまが誰とも目を合わさないまま訊ねた。
 それに、答えるまでに少し間があった。
 アークトゥルスさまもキャロルも無言のまま、先を促したりはしない。
 そして、やっと、デネボラさまが口を開いた。
「ほぼ壊滅です」
 アルスはとても驚いた。
 なんの話をしているのかはさっぱりわからないのだけれど、異常を検知だの、首都防衛だの言っているのに、ほぼ全滅、なんて言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
 ちっ、とスピカさまが舌打ちした。
「東部地方の結界は、半年前に巡ったばかりですわよね?」
 奥の椅子に優雅に座ったまま、キャロルがゆったりと口を開いた。
「そうだね」
 アークトゥルスさまもゆっくり応じる。
「ということは次の巡回は半年後ですわね」
「そういうことだね」
 どこかのんびりと聞こえる二人のやりとりに、スピカさまがまた舌打ちをした。
「そんなことは言わなくても、わかりきったことだろう!」
 そうなのか。
 つまり年に一回、巡回して点検している、ということかな。
 魔法の結界というのがどういう代物なのか、アルスにはまったく想像すらできないけれど、魔術師たちの仕事は、なにも研究室にこもって本を読んでいるばかりではないらしい。
「そうだね、半年だ」
 アークトゥルスさまがもう一度言った。
 スピカさまが静かに、正面の同僚を見返す。
 きっと言葉の続きを促しているのだ。
 キャロルは、というと、相変わらず当事者なのか部外者なのかよくわからない感じで、眺めるように他の魔術師たちを見ている。
「カノープスさまが巡回してくださる次の春までの半年間、結界の応急処置をしなければならないね」
「……そうだな」
「どうしたんだい、スピカ。ここにきて乗り気じゃなくなったのかい?」
「は?」
 急にスピカさまがぽかんとした。
 感情が表情に表れている。
 なんの話だ、と書いてあるかのようだ。
「おや、ちがうのかい? 君はこれを見込んでキャロラインどのを呼んだのかと思ったのだが?」
 スピカさまの様子は見ていてわかりやすかった。
 アークトゥルスさまの言葉を、まるで水を飲み込むように理解して、それから、しまった、という顔になった。
「わたくしを呼んだのは、スピカどの本人でしたの?」
「ああ。彼が言い出したんですよ、貴殿を王都にと。けれど、結界のこととは結び付いてはいなかったようだね」
 アークトゥルスさまの視線を追ってスピカさまをみると、眉間をぐっと寄せて、左手でしきりに耳元を触っている。
 そういえばスピカさまは耳飾りを付けておられたと思うが、アルスのほうから見える右耳にはなにもついていない。
 左耳だけなのだろうか。
「君の意図したところが別だったとしてもね、スピカ。いそいで半年間も持ちこたえられる結界を、東都全域に施せる魔術師、というのは、何人もはいない」
「……」
「だからキャロラインどのにお願いするのが適任なんだよ。君の占いはそういうことだったんじゃないのかい?」
 アークトゥルスさまの言葉に、キャロルがふと反応した。
 少し首をかしげるようにして、スピカさまを見る。
「スピカどのの占いの結果?」
「ええ、そうですよ。ということなので、お願いできますか」
 またむすっとして黙り込んでしまったスピカさまを、キャロルは少し眺めてから、それからゆっくり斜めにアークトゥルスさまに視線を戻した。
「まったくもってわたくしの業務外の案件なのですけど」
「でしょうね。もちろん承知しています。その上で是非ともお願いしたい」
 キャロルは尻込みするでもなく、かといって使命感を持った様子でもなく、ただちらりとスピカさまを見てから応じた。
「スピカどのの占いの結果だというのなら、仕方ありませんわね」
 一瞬、スピカさまの動きが止まった。
 別に動いていたわけではないのだから、固まった、というべきだろうか。
 そしてそれからしばらくして。
「……ああ」
 やっと返事があった。
 そうと決まれば支度をしましょう、と言ってキャロルが立ち上がった。
 足音もなくすっと動く身のこなしは、お姫様なのか、それとも魔術師のなせるわざなのか。
 彼女が歩み寄った先には数冊の本が広げられたり積み重なったりしていた。
「デネボラどの、結界石や結界神殿の地図はありまして?」
「こちらに揃っております」
「あら、準備が早い。お借りしてよろしくて?」
「差し上げます、キャロラインさま」
 そう、と言って地図のようなものを受け取るキャロル。
 だが、差し出したほうの魔術師はずっと年上なのに、態度も敬語もまるで上位者に対するものだ。
 キャロルはなぜかいつもドレス姿で、魔術師のローブを身に着けていない。
 なので身分を示すそのローブの長さもわからない。
 キャロルは何冊かの本を手に取ると、相変わらずむすっとしているスピカさまに斜めに目をやった。
「おふたりはすぐに東都にお戻りで?」
「……そうだな」
 ぼそっと応じたのはスピカさま。
 振り返ることはなく、しきりに左手で耳元をいじっている。
「結界が全域となると、東都の要石を確認してみないとね」
 続かなかったスピカさまの言葉に代わり、アークトゥルスさまが立ち上がって言った。
 それからデネボラさまに質問したり指示したりする。
 この方はアークトゥルスさまか、スピカさま、あるいはお二方の助手のような立場なのかもしれない。
 キャロルはしばしスピカさまを後ろから眺めて、それからおもむろに手を伸ばした。
 スピカさまの手に触れた、だろうか。
 弾かれるようにスピカさまが顔を上げる。
「なんだ」
「そんなに触っていては、銀と石が摩耗してしまいますわよ」
 くす、と微笑うキャロルに、スピカさまは、何とも答えなかった。