二章 (2)

 中は意外に広かった。
 もしかしたら魔法で広くしているのかな、と思ったけれど、口には出さないでおいた。
 馬車の座席というよりは、もはや小さな部屋だ。
「どうかしまして?」
 入り口で突っ立っていると、奥の席に座ったキャロルに不思議そうに見られた。
「適当に座ってくださる?」
 すぐに、と彼女が続けようとしたところで、馬車が動き出し、アルスの体は大きく揺れた。
「すぐに動くから、と言おうとしたのだけど、間に合わなかったわね」
「ああ、いや、大丈夫だよ」
 アルスはすぐに揺れに慣れ、キャロルの隣を指さした。
「そこに座っても?」
「どうぞ」
 彼女は何やら本を取り出したところで、アルスの指が示す場所を確認もせずに頷いた。
 そしてそのまま本から目を離さない。
 木製の座席にはクッションが置いてあり、座り心地は悪くなかった。
 馬車特有のガタガタと揺れる振動が、むしろ馬車に乗っているんだ、と思い出させてくれるようだった。
 そのときふわっと目の前で何かが光った。
 目の前というほどではないが、アルスには珍しかったのでそう思えた。
 キャロルとアルスの前にある小さなテーブルのほぼ真ん中に、水晶球が安置されていて、それが光ったのっだ。
「カノープスさま、結界石は小さいのも全部まわるのですか?」
 そして、光る水晶球がしゃべった。
 馭者台にいるはずの少年の声だ。
 そういえば、魔法宮の受付にもあったな、と思う。
 魔法使いたちの連絡手段なのだろう。
「そこが迷うところよねぇ。全部寄った方がいいのでしょうけど、そんなことしてたら二か月かかってしまうわ」
「三か月じゃなくて?」
「わたくしは各地で宴会をしてまわるわけではないのよ」
 本から目を離さず、表情も変えず、キャロルが言った。
 宴会?
 けれど水晶の向こうの少年は、面白いとばかりに笑っている。
「それじゃカノープスさま、最初はどこへ?」
「一番近いのは風だけど、さっさと安定させるのには地のほうがいいわね。まっすぐに地下神殿に向かってちょうだい」
「はい、カノープスさま!」
「それとアルサフィナ」
「はい!」
「わたくしはカノープスではありません」
 キャロルがぴしゃりというと、ここからは姿の見えない少年が、しゅんっとしたのが見えた気がした。



 心地よい揺れにうつらうつらしていたアルスは、突然馬車がガタンと揺れたので、はっと目が覚めた。
 慌てて小窓にかかっているカーテンに手を伸ばしかけ、ぴたりと止まる。
 仮に外に敵がいるとして、ここで外を覗くのは危険だろうか、と考える。
 と、そのとき。
「あなた、おもしろいわねぇ」
 背中に声をかけられた。
 護衛対象の魔術師。
 そうか、彼女の安全を確かめるのが先だった。
 急いで振り向いたアルスを、けれどキャロルは、本を手にしたまま呆れたように眺めていた。
 思考が止まる。
 えっと、なにを確認するんだったか。
「寝惚けているいるのかと思ったら、案外ちゃんと考えているようで、でもやっぱり寝惚けてる?」
 キャロルが不思議そうに首を傾げた。
 ゴトンとまた、馬車が揺れた。
 揺れただけだ。
 というか、ずっと揺れている。
 どうやら道の舗装が荒いようだ。
「いやその……ずいぶん揺れると思って」
「ああ」
 キャロルは少しだけ驚いたような顔をした。
「もしかして王都、というか、城下町を出たことがないのかしら?」
「え?」
 今度は逆にアルスが驚いた。
「出たことくらい、あるよ」
 答えてから、あれ、と自問した。
 どこへ?
 どこへ行ったことがあるだろう?
 アルスがそれ以上答えないどころか、考え込んでしまったので、キャロルは興味を失ったように目をそらした。
「馬車が郊外まできたというだけよ。どこまでも王宮の周辺みたいな綺麗な道が続いているはず、ないでしょう?」
「ああ、そうか。そうだね」
 アルスは納得した。
 おかしなことはない。
 確かに街の中心部で生まれ育ったアルスは、わざわざ郊外に出かける必要などないので、馬車の揺れ方に慣れていなかったのだ。
 それだけだ。
 ほっと息を吐く。なぜかすごく安心した。
「えっと、じゃあ窓の外を見ても大丈夫かな」
「どうぞ。というかもう街は出たから、カーテンを開けておいてもよろしくてよ」
 ぶっきらぼうに丁寧に、突き放したように親切に、キャロルは目を本に向けたまま言った。
 アルスはカーテンを開けながら、彼女のあの話し方が、どう距離を取ればいいのかわかりづらい一因かもしれないなと思った。


 馬車の揺れは次第に大きくなり、うたた寝できる程度ではなくなってきた。
 窓の外に人の住む町らしきものは見えず、王都からははるか北の彼方にあるように思っていたオラディール山脈が、随分近づいているように感じられた。
 そして山というのは、黒くて大きな岩のようなものなんだな、と思った。
 そして山の裾、というのだろうか、まるで木の根のように広がっているのを見て取ることができた。
「このあたりに来るのは初めて?」
 声を掛けられてアルスは振り向いた。
 キャロルがいつものように斜めにこちらを見ている。
 ずっと読んでいた本は閉じられて膝に載っている。
 これだけ揺れたら読書には向かないだろう。
「ああ。山をこんなに近くで見たのは初めてだ。オラディール山脈、だよな?」
「ええ、といってもこのあたりではそんなに大きくもないでしょう?」
「そうなのか?」
「西へ行くほど高くて険しくなるのよ。習わなかったかしら」
「習った、と思う」
 キャロルは決してこちらを馬鹿にしているつもりはないのだろうけれど、アルスはあまり今まで自分のそばに自分より賢い同年代、というのがいなかったので、どんな態度をとればいいのか戸惑った。
 王立学院の首席ともてはやされていても、現場に出て働いている彼女のほうが、よっぽど物知りなのだ。
「えっと、キャロル、よかったらその、いろいろと教えてほしい」
 だから少ししどろもどろに申し出ると、彼女はまたちらりと斜めにこちらを見た。
 見下ろされているように思えるのは、卑屈になりすぎだろうか。
「必要かしら?」
「え?」
 予想外の返事にぽかんとした。
「初めて来て初めて見たのでしょう? 知らないことがあっても当然よ。もちろん、質問があればお答えするわ」
 また、丁寧に突き放された。
「ああ、そのときはたのむよ」
 アルスはなんとかそれだけ答えて、そこでこの会話は終了となった。
 テーブルの水晶球が光ったのだ。
「キャロル姉さま、地下神殿がもうすぐだけど、どこに止めたらいいですか?」
 馭者の少年の声がする。
 地下神殿?
 そういえば最初にそう言っていたな。
「わたしたちを入口の真正面で降ろしてちょうだい。そのあとはあなたがいつもやっているとおりでいいと思うわ」
「わかりました!」
 元気な返事のあと水晶球の光が消えると、キャロルは膝の上の本を足元の籠に入れた。
 何冊も本の入った籠はまるで本棚のように見えた。
「俺はどうすればいいんだ?」
「危険なことはないとは思っているのですけど。一応、護衛の騎士ということでわたくしと一緒に来てくださる?」
「わかった」
 アルスが頷いたところで、馬車が止まった。