二章 (4)
ふうっ、と大きく息を吐いたのは、アルサフィナだった。
アルスが隣の少年を見下ろすと、気付いて上目遣いに見返された。
「騎士さまはさっきからずっと余裕ですね」
「余裕?」
なにを言われているのかわからず、鸚鵡返し。
「だってハダルさまを前にして、なんだかぼんやりしてませんでしたか!」
「ああ……それは余裕なんじゃなくて、知らないからだよ」
「知らないってなにを?」
「ハダルさま、というのか? あの魔術師の方を、だよ。すごく偉い方なのかどうか……」
「すぐれた魔術師の方です!」
アルスの言葉をアルサフィナはさえぎるように言った。
「東に配置された四人の一級魔術師のうちのおひとりです!」
「そ、そうか。それでハダルさまはいつもこの神殿にいらっしゃるのか?」
「いいえ! 普段は歳星宮に……」
暗誦するように紡ぎだされていた言葉がふつっと途切れた。
「どうした?」
「外部の人間には決して言ってはいけない、と習いました。騎士の方は、外部の人間、なんでしょうか?」
ああそれは、と笑い飛ばそうとして、アルスは息をとめた。
魔術師を敵とまでは思っていない。
けれど騎士団と魔術師団は、いわば別の軍隊だ。
必要ならば必要な時に、キャロルにきいたほうがいいかもしれない。
キャロルが丸投げしたのは、魔術師の配置の話ではないはずだ。
考えろ、いま、必要なのは、なんだ?
「ええっと、それじゃあ、キャロルが今なにをやっているのか、大雑把に教えてくれないか」
考え込んでしまったアルサフィナにたずねた。
「あ、はい。結界の点検です」
「うん、さっきもそう言っていたけど、本来の点検の時期とは違うんだよな」
「はい。本当の点検は老カノープスさまが行われます。今回のキャロル姉さまのは、緊急点検だって聞きました」
アルスは頷いた。
王都で聞きかじった内容から推測すると、その結界の状態が非常にまずいことになったので、急ぎ補修の出来るキャロルが派遣された、ということだろう。
「アルサフィナは、この結界というのはどういうものだと習った?」
「国全体を魔法結界で守っているのだと習いました」
「国全体か、すごい広さだな」
「この辺は東都を中心に結界が張られています。大きな要石と小さな支石がいくつもありますけど……僕たちでは見ることもできません」
「魔術師でないと立ち入れないんだな」
「はい、支石は。要石だと一級魔術師以上でないと近づけません」
「そうか……」
つまりここには、それだけ重要なものがある、ということだ。
そしてキャロルはそれに近づける、さらには点検と呼ばれるなにかしらの魔法の作業もまかされている、ということだ。
優秀な魔術師、厳重な施設。
そんなところへ、なぜ自分は連れてこられた?
結局のところ、それが一番わからないのだ。
扉が開いてキャロルが入ってきた。
と同時に彼女はくすっと笑った。
その声に驚いてアルスがはっと顔を上げると、キャロルはまたくすくすと笑った。
「お、おかえり」
「ただいま。お待たせしましたわね」
「いや、それはたいしたことじゃない。君の仕事は終わったのか」
「ええ、ここでのはね。アルサフィナ? いつまで唸っていますの、次へ行くわよ」
扉の前で腰に手を当て、少し振り向くようにしてキャロルが言った。
アルスがその視線を追いかけると、魔術師のたまごの少年は、さっきまでのアルスのように、むずかしい顔で考え事をしていた。
ああ、だから彼女は笑ったのか。
仕事を終えて戻ってみたら、弟分と護衛がそれぞれ唸っていたものだから。
「あ、カノープスさま、おかえりなさい」
やっと我に返ったアルサフィナは、アルスが立ち上がってキャロルの立っている入り口に向かうのを見て、自らも大急ぎで手荷物をひったくって駆けてきた。
「すぐに次に向かいますか? 馬車の準備をしてきますね」
そのままアルスとキャロルの間をすり抜けて走っていきそうだったアルサフィナを、けれどキャロルは呼び止めた。
「お待ちなさいな。準備は一緒に行ってからで良いわ。あなたは後ろ、アルスは前ね」
「え?」
アルスは前、と言っておきながら、キャロルは自らがすたすたと歩きだした。
急いで追いついて、並ぶ。
先頭を切って歩くには、この場所に明るくなかったので。
アルサフィナは言われたとおり、すぐ後ろを離れずついてくる。
ちら、とその表情を伺うと、不思議そうというか、どこか不安そうというか、落ち着かないような顔をしている。
いつもだったら先に走っていくところなのだろうか。
慣れているであろうアルサフィナを先に行かせない理由は、なんだ。
「キャロル」
「なにかしら」
「いまこれは、どういう状況なんだ」
「ざっくりした質問で、なんと答えたらいいか困るわね」
「俺はなんのために呼ばれたんだ」
「それはわたくしの護衛のためでしょう」
「魔法の使えない俺に、君が守れるのか」
「もちろん」
キャロルはまるで軽い調子で頷いた。
最初に入ってきたあの広場のようなところで、アルスが立ち止まる。
同じような横道がたくさんあるが、地上への道はどれだ。
当然ながらキャロルは迷うことなく、左の道を選ぶので、追いかけるように進む。
「それはつまり……」
魔術師に反応するという松明に灯がともる。
長いのぼり階段。
高位の魔術師なのにローブを着ていない、場違いなドレス姿。
それよりもっと場違いな、騎士。
「それはつまり、敵がいる、ということか」
出口が見えてきた。
アルサフィナは後ろ、アルスは前。
くす、とキャロルが笑った。
「いるでしょうね」
ぼそりと返された答えは、アルスには届かなかった。
王立学院を首席で卒業した新米騎士は、剣を抜き放って飛び出していたからだ。
「騎士さま!?」
アルサフィナが驚いて追いかけようとするのを、キャロルが首根っこを掴んで止めた。
「あなたは後ろって言ったでしょ」
弟分を引っ張り寄せたキャロルは、反対の手を掲げた。
けれど魔法が発動する前に、カン、カン、という軽い金属音が雨のように降り注いだ。
アルサフィナがぽかんと見上げる。
さっきまで、この場所の意味も、魔術師のことも、ちっともわかっていなかった、騎士。
「あら、これは期待以上ね」
キャロルの声に、アルスは前傾姿勢を解きながら、剣を収めて振り向いた。
なぜかキャロルに後ろ首を掴まれた少年が、ぽかんとしているのを見て、アルスは苦笑した。
「さすがにこういう襲撃は初めてか?」
「う、うん。もちろんだよ……」
「頻繁にあったら問題でしょ」
一方まったく動じた様子のないキャロルは、アルサフィナから手を離し、馬車をまわしてきてちょうだい、と背を押した。
「一緒に行った方がいいんじゃないか」
「大丈夫じゃないかしら。もう人の気配、ないわよね」
「……ないな、確かに」
アルスが頷くのを見て、アルサフィナは元気よく走っていった。
馬車がどこにあるのか知らないので、なんとなく見送っていると、キャロルがしゃがみこんで、それを拾い始めたので、あわてて振り向いた。
それは、矢だった。
しかもすべて鉄の矢だ。
あっという間にキャロルの手の中には、十数本の矢が握られていた。
「ところでこの矢を見ただけで、これがどこの国のものか、なんてわかるのかしら」
「いや、わからない。……ごめん」
「それは仕方ないわね。わたくしたちが生まれてから今まで、この国は他国と戦争をしていないもの。目にする機会はないでしょう」
うんうんと頷きながら、キャロルはじっくりと矢を検分している。
もしや、と思ってアルスは口を開いた。
「君はわかるのか、それがどこのものか」
騎士の自分がわからない敵国の武器、兵器について、魔術師のほうが詳しいなんてこと、あるのだろうか。
「馬車がきたわ」
キャロルは答えず、矢をまとめて、やや無造作にアルスに押し付けるように渡してきたので、アルスはあわてて受け取った。
そして目の前に止まった箱型馬車に、ひとりでさっさと乗り込んでいく。
「キャロル姉さま、次は天空神殿ですか? 途中にどこかに寄りますか?」
馭者台で手綱を操りながらアルサフィナが声をかけると、
「神殿へまっすぐ向かってちょうだい」
箱の中からキャロルが答えた。
はい、と返事をしたアルサフィナが、馭者台の上から見下ろしてきた。
「早く乗ってくださいよ、騎士さま!」
「あ、ああ」
手に矢を抱えて突っ立っていたアルスは、少年にせっつかれて、あわてて馬車に乗り込んだ。