三章 (1)

 ごとん、と倒れかかってきたものに驚いて、アルスは振り返った。
「だ、大丈夫か?」
 少し相手を覗き込む。
 青いドレスの魔術師、キャロル・キャロラインを。
 一見しただけだと姫君か貴族の令嬢のように見える。
 そして少し彼女の人となりを知ると、今度は完全無欠の高位の魔術師に見える。
 本当のところ、彼女の身分がわからないままここまで来たが、馬車の中でアルスに倒れてぶつかるほどの居眠りをするのは、初めて見た。
 いや、移動中に眠るのが悪いわけではないのだが。
「ごめんなさい……」
「いや、俺は全然構わないが。キャロル、疲れているのか?」
 頭を押さえて座り直した彼女は、窓の外を見てからふっと息を吐いた。
「まあ、疲れてはいるわね。特に魔力消費が激しくて」
 そしてまた大きく息を吐いた。
 今度のはため息だ。
「えっと、次の目的地は近いのか? まだ時間があるなら横になる? とすると俺は邪魔かな?」
 アルスが腰を浮かせようとするとキャロルが、くすっと笑った。
 自然にこぼれ出た感じだ。
 彼女が笑うところを見たことがないわけではないが、普段はどこかわざとらしく演技しているように見えていた。
 だから自然の笑顔をまじまじと見返してしまった。
「ありがとう。優しいというか真面目というか。ても目的地はそんなに遠くないの。そのまま座っていて」
 そしてキャロルは自然に受け流した。
 あの、丁寧に突き放した話し方ではなかった。
 これは、二人の距離が縮まったのか。
 それとも単に、彼女が演技をする元気もないのか。
 きっと後者だ。
 距離が縮まる要素がない。
 こっそりため息を漏らしつつアルスが座り直す。
(−−え?)
 アルスの肩に、キャロルが頭を乗せてきた。
 驚いて振り返りそうになったが動かないよう踏ん張った。
 そうっと盗み見ると、キャロルは目を閉じているようだ。
 まさかもう眠ったのか。
 自分は良い枕になれるだろうか。
 おかしな問いかけを自分に向けながら、アルスは馬車の揺れに身を任せた。



 間もなく、様子が変わった。
 馬車の揺れが、がたんごとん、ではなく、規則的な振動になったのだ。
 アルスにとってはこちらのほうが馴染みがある。
 王都と同じ、石畳の道になったということだ。
 ということはつまり、それなりに大きな街に入ったということだろう。
 そのとき水晶球が光った。
 魔術師が遠隔の会話、遠話に用いるものだ。
「キャロル姉さま、神殿の前につけていいんですか」
 アルサフィナの声が届く。
 が、そうだ、キャロルは眠っているはず。
「……そうね、仕方ないけどそうしてちょうだい」
「わっ」
 キャロルがいとも普通に返事をしたので、アルスのほうが驚いてしまった。
 わかりましたーという返事と、水晶球の光が消えてから、ふう、とアルスはキャロルを見た。彼女はゆらりと身を起こしたところだった。
「えっと、眠ってたのか?」
「ええ、少し。悪かったわね」
 少しだけ伸びをするような仕草をするキャロルに、アルスは首を振った。問題ない。
「ここは? 外を見てもいい?」
「ええ」
 キャロルが頷くので、アルスはそうっとカーテンの端をめくり、馬車の外をうかがった。そして、息をのんだ。
 たくさんの人が行き交っていた。
 王都のような石畳、いやちがう、なんとなく王都とは違う色の石畳の道。
 道沿いには商店だろうか、ずらっと軒を連ねている。
 そして花。
 なぜかどの建物の前にも花壇や植木鉢が並び、木が植えられている。
 今が春なのもあって、緑の鮮やかさがまぶしいくらいだ。
 そして、水路。
 橋を渡った感じがしたから、大きな川を越えてから街に入ったように思うけれど、そういう川とはちがう、水路がずっと続いている。まるで道のように。
「すごいな、ここは。えっと、街の名は?」
「正式名称エスクリス。通称東都。昔の地名の名残で、リャンの町って呼ぶ人もいるわ」
 なるほど、とアルスは頷いた。
 王都も正式名称はカピトリスだが、その呼称を使うことは稀で、だいたいは王都と呼ぶものだ。それと同じだろう。
「この道のつくりは王都とはちがうのか? なんとなくちがうのはわかるんだけど」
「使用されている石材の違いのことかしら。王都のものより青っぽい色をしているし、あと馬車の通る時の音が少し高いわよね」
「色と、音、か」
 さすがにそれは気づかなかった。
 そして訊ねればすぐに返答があることに感心する。
 感心しつつ窓の外をうかがい、ここまでの街並みとは異なる建物が見えて目を止めた。
「なんだろう、なんだか庭で松明を燃やしている、大きな建物があるな」
 アルスが不思議そうにつぶやくと、キャロルがため息をついた。
 振り返ると、彼女は額に手を当て、やれやれと首を振った。
「残念ながら、あれがわたしたちの今日の目的地よ」
 本当に、東都のものはいちいち大きくて、大袈裟なのよ、と。
 そういえば、前にもどこかで似たようなことを言っていたような。
 そんな、彼女いわく大袈裟な松明が見える門の前で、馬車はとまった。
 目抜き通りではないのだろうが、そこそこ大きな通りだ。
 馬車がとまると行き交う人々が視線を寄越したり、足を止めたりしている。
 はあ、とまたキャロルはため息をついた。
 いやちがう。気合を入れたようだ。
「アルス、エスコートをお願い」
「えっ? あ、ああ」
 いままで散々自由に振舞っていたのに、突然ちゃんとした仕事を指示されて、アルスは驚いてしまった。
 けれどすぐに動いた。仕事だ。
 馬車の扉を開ける。周囲を確認。見物しているのは一般市民ばかりだ。
 アルスは馬車から降りると振り返り、手を差し伸べた。
 中から青いドレスの手がしなやかに重ねられ、現れた姫君が優雅に馬車から降り立つ。
 つま先から頭のてっぺんまで、キャロルは完璧なお姫さまだ。
 魔術師のローブより、ドレスのほうが正しいように思えてくる。
 周囲からの視線のなか、その建物の門をくぐると。
「……!」
 アルスは何度目かの驚きで一瞬息が止まった。
 すぐに吸って、吐く。
 キャロルが言う大袈裟、とは、もしかしてこのことだろうか。
 魔術師の見習いと思われる人々が、ずらっと並んでふたりを待ち構えていたのだ。いや正確には、キャロルを、だけど。
 アルスはたじろいだけれど、そんな出迎えの人々の奥に、見覚えのある背の高い赤い髪の魔術師の姿が見えた。
 魔術師の長い白いローブをまとっているのはひとりだけ。
 そこにいれば身分が高いのだろうと無知でもわかる雰囲気を感じるけれど、王都で騎士をしていて魔術師に出会うことなど皆無だ。
 だから一見してあそこにいるのが誰だかわかる、というのは、ごくごく最近知り合った人だからだ。
 騎士団の離れの資料館を訪れた魔術師、アークトゥルスさま。
 思えばあのときから、アルスはなにかに巻き込まれていたのかもしれない。
 見習いの人々のつくる道を通って、青いドレスの姫君を、赤い髪の魔術師のもとまでエスコートする。
 そんな自分は騎士のいでたち。
 なんだかものすごく目立っている。
「ようこそ、キャロラインどの。お待ちしていましたよ」
 アークトゥルスさまから声をかけられ、キャロルの足がとまる。
 エスコートするために触れているわずかな指先から、彼女の指示が聞こえてくるように感じて、アルスは手を離して少し下がった。
 するとキャロルがドレスをつまんで腰を落として、きちんとした挨拶をする。
「点検に参りました」
 なんとなく口上は端折った感があるけれど、アークトゥルスさまが頷いて白いローブを翻したので、きっと誰も違和感なんて感じなかっただろう。
 アークトゥルスさまとそのそばの人々に続いてキャロルも歩き出す。
 周囲の見習いたちは動かない。
 ずっと見送るのか。
 そして、自分はどうすればいいのか。
 一瞬不安になったが、すぐに助けが走ってきた。
 馬車を置いてきたアルサフィナが隣に現れたのだ。
「おまたせしました、騎士さま! 行きましょう!」
「あ、ああ」
 アルスは待っていたわけではなく、ただ戸惑っていただけなのだが、この小さな魔術師のたまごは笑顔で全部吹き飛ばした。
 軽い足取りで建物へと入っていくアルサフィナを、まるで付き添いの保護者のように追いかける。
 実は立場が逆だなんて、見た目にはきっとわからない。そうでないと困る。
 中に入ると、そこは立派な神殿だった。
 前室を抜けて足を踏み入れたところは、奥の一段、いや数段高くなったところが祭壇なのだろうが、それだけでひとつの建造物のようだ。
「騎士さま、この辺で」
 前だけ見て進んでいたアルスは、アルサフィナに呼ばれて慌てて足を止めた。
 アークトゥルスさまとキャロルは祭壇のほうにのぼっていくが、そばにいた人々はその手前で立ち止まっている。
 そういえば、魔術師はその地位や階級によって立ち入れる範囲が決まっていると、いま隣にいるアルサフィナに聞いたはずだ。
 観察してみると、なるほど、前にいる人ほどローブ、というかマントの丈が長い。
 きっと階級に応じて丈の長さが決まっているのだ。
 この辺りは騎士団と同じ仕組みなのだろう。
 そして、それならばあの、高いところに建っている青いドレスのお姫さまのローブは、どれくらいの長さなんだろうな。
 しばらく魔術師の作業を見守っていた一行だったが、なにかしらの区切りがついたのか、アークトゥルスさまが振り向いた。
 すると控えていた魔術師たちの緊張感が一気に解けて、人々がばらばらに動き出した。
 まるで授業が終わって休憩時間に入った瞬間のような感じだ。
「騎士さま、僕たちも行きましょう」
「あ、ああ」
 慣れた様子で歩き出す少年を、アルスはまた追いかける。
 それしか出来ないのだから仕方ないのだけれど、なんとも歯がゆいものだ、と思わずにはいられなかった。