三章 (5)
魔法陣から一歩出ると、彼女は言ったとおりみるみる回復し、あっという間に自力で立てるようになった。
けれど、アルスに手を差し出した。
「もう少し手をつないでいてくださらない?」
「は?」
意味のわからない申し出に目を丸くする。
キャロルは困った顔で、片手でペンダントに触れた。
「これの効果を最大に使いたいのだけれど」
「……ごめん、良かったら一から全部、説明してくれ」
まったく話が見えなくて、アルスはとうとうそう言ってしまった。
「わかったわ。説明する」
キャロルは頷いて、また手を差し出した。
もちろんつなぐのが嫌なわけではないので、その手を握った。
するとキャロルが深呼吸をした。
目に見えてわかるように顔色が良くなる。
「先刻の爆発のとき、あなたはどうしていたの?」
キャロルが口をひらいたが、いきなり知らない話だった。
「この建物が崩れたのは、爆発があったのか。事故なのか?」
「いいえ。あきらかに故意の爆発だったわ。魔法で感知しづらい、火薬によるものね。それに気付かなかったということはあなたは魔法の結界の中にいたのね。魔法石商かしら」
「あ、ああ。アークトゥルスさまに連れられて」
キャロルは頷いた。
そして上を指差した。
「ここの教会にいたわたくしは、思いっきり下敷きになるところだったわ。でも他に人はいないはずだったので、自分ひとりなら逃げるのはそんなに難しくはなかったのよ」
「それでこの地下に逃げたのか」
「ええ。ここはいざというときの魔法結界が張られているからね」
「だから無事だったんだな」
アルスの相槌に、つないでいる手がぎゅっと握られた。
「……それが、無事ではなかったのよ」
キャロルがちょっと低い声で言った。
ああ、これがさっき感じた彼女が怒っているところだ。
「そうか……うん。これは?」
アルスが部屋に広がる緑色の光に目をやった。
「まずはあの蔓よ。ここに入るとまずあれに吊るしあげられたの」
「魔法で操られた植物か」
「それはちょっとちがうわ。魔法で操られた植物なら、わたし負けないと思う」
キャロルは言い切った。
自信、というよりは、まるでそれが当たり前であるように。
「そ、そうか」
「あれは、魔法を吸収する植物、なのよ」
「えっと……どういうことだ?」
「自然にはね、魔法の元になる力を貯め込む性質の植物があるのだけど、それを、なんて言えばいいのかしら……改造した、みたいな?」
「人が手を加えて、人に害をなす植物をつくったのか?」
「そうね。でも影響を受けるのは魔法の力だけだから、アルスは触れても平気だったでしょう?」
「あ、ああ……」
「それに加えて、この魔法陣よ」
「こっちはなんだ? 俺はこれも平気だったけど」
「ええ。これは魔法の力の回復を阻害するみたいね」
アルスがむずかしい顔をしていると、キャロルは少し微笑んだ。
それから魔法陣のほうを睨む。
「あの真ん中でいろいろ試してみたのだけどね。蔦に魔力を吸い取られ、回復させようにも魔法陣に阻まれ、もう本当、魔力が空っぽだったのよ、わたし」
キャロルが大きく息を吐いた。
彼女は魔力のことしか言っていないが、体力も削がれていた。
説明されてなんとなくはわかったが、もちろん完全に理解できる話ではない。
「そこに、あなたよ」
はっとした。
彼女を見ると、目が合った。
「魔法にまったく影響されない俺だから、あそこまで行けた?」
「本当、そう。本当、それ」
アルスがやや自虐的に言ったのに、キャロルは乗っかってきた。
なんだかいつもの、突き放したような丁寧語が消えている。
つないでいる手が、きゅっ、と握られた。
そういえばこの理由をまだ聞いていない。
「空っぽ、だったのだけどね、あなたが来てわたしの手を握ってくれたじゃない」
「あ、ああ……一応、生存確認というか」
「そうね。あれで、一気に魔力が流れ込んできて目が覚めたわ」
「え? 魔力が? どういうことだ?」
アルスがぽかんとキャロルを見つめる。
「あの手をつないだだけで、蔦を一気に燃やせるだけの魔力が補充されたの。驚いたわ」
「俺が、関係あるのか?」
キャロルは頷くと、胸のペンダントを示した。
「ええ、これは龍のうろこと呼ばれる魔法石なのだけど、相性が合う人が少なくてね。簡単に言ってしまうと、魔法の力を取り込みやすくする効果があるのよ」
「取り込む? 魔法の元っていうのは、その辺に漂っているものなのか?」
「そうよ。自然の力だもの。空気や水と同じよ」
それでさっきから意図的に深呼吸をしていたのか。
「で、それで俺にどんな関係があるんだ?」
「関係、というより、影響といったほうがいいかしら」
「影響?」
「そう。あなたを媒介にすると、より多くの力が効率よくわたしの中に入ってくる、という感じかしらね」
「媒介?」
アルスは少し考えた。
魔力とは空気や水のようなもの。
自分を通して空っぽの彼女に注ぐと効率がよい。
ということは。
「俺は漏斗か」
そう呟いたら、キャロルが吹き出した。
「そ、そうね。そんな感じかしらね」
「俺を通過するけど、俺には貯まらないからね」
アルスは真面目に考えて言っているのだけど、キャロルにはどうやら斬新に思われたらしい。
いや、単に笑われているだけか。
手をつないだままひとしきり笑うと、少し目尻をこすってから、彼女は顔を上げた。
そして、するりと手を離した。
表情も一変している。
静かな、なにを考えているのかちょっとよくわからない表情。
でもアルスには、少しわかることがある。
キャロルはこの目の前の緑の魔法陣を見るとき、なんだか怒っている感じがするのだ。
顔に出ているわけではないけれど、なんとなく、雰囲気が。
キャロルは、魔法を使っているというよりは、観察しているかのように見える。
いやそうか、観察しているのか。
オラディオンの魔術師には禁止されていると言っていたではないか。
キャロルには使えない魔法なのだ。
すう、と、キャロルが息を吸った。
そして、吐き出した。
すると目の前の緑の光が、炎のように揺らめいた。
まるで彼女の吐息が炎だったかのように、魔法陣が炎で描きかえられていく。
けれど炎はすぐにその図形の姿を保つことができず、うやむやに崩れて消えてしまった。
部屋が、薄暗くなった。
「消したのか」
動き出さないキャロルに声をかける。
「消せた、と思うわ」
キャロルがぽつり、と返事をした。
それから、ぽっ、と光の玉が浮かび上がった。
騎士団地下の書架に行ったときにも見た、魔法の照明だ。
「知らない魔法に出会うのは久しぶりだわ」
キャロルは振り返りながらひとりごちる。
それからアルスに手を差し出す。
「つないで」
「えっ」
理由は、わかる。
いま魔法を使ったから補充するのだと。
でもなんだか、甘えられているように錯覚する。
アルスが手を握ると、キャロルも握り返してくる。
そして、視線を転じた。
「上はどうなっているのかしら」
歩き出すキャロルに手を引かれるように、アルスも歩き出す。
頭上の光の玉も、ついてくる。
が、地上に繋がる階段にさしかかると、あの壁の松明がひとりでに灯を灯した。
すると頭上の光の玉は音もなく静かに消えていった。
キャロルの魔法に間違いないが、彼女がなにかしているようには、アルスには見えない。
つまり呪文を唱えるとか、杖をふるうとか、そんなことはしない。
キャロルは、息をするように自然な状態のまま魔法を使う。
それがどれだけ凄いのかは、アルスにはわからない。
松明の階段をのぼり、地上の様子をうかがう。
「人の気配は、近くにはないな」
アルスが先に出てからその手を引いて、キャロルが続く。
「あらまあ、それにしても祭壇の見る影もないわね」
驚いているのか、そうでもないのかわかりづらい調子で呟くと、キャロルはアルスの手をはなし、瓦礫の山に向かっていった。
「キャロル?」
アルスは急いで追いかける。
文字通り足の踏み場もないその上を、キャロルが素足で登っていく。
「て、君、靴は?」
「はい? いま、それ?」
キャロルは少しだけ振り向いて、片目でこちらを見た。
「ヒールの靴じゃ逃げるのにも戦うのにも向いてないのよ」
「戦う?」
「あ、戦うのは、平気かしら?」
なんだか適当そうに言って、瓦礫の山をどんどん登っている。
なにか、目的があるようだ。
アルスが追いかけようとすると、彼女は背中に目があるかのように反応した。
「大丈夫だから、そこで待ってて」
そう言われると、追いかけづらい。
見上げていると、彼女は高い所で腰を下ろした。
視線は向こう側、アルスからは見えないところを見つめている。
片手を胸に当て、もう片手を向こうに向けて。
聞こえてはこないけれど、彼女がなにか囁くように、唱えている。
やがてなんとなく、ほんの僅かに、周囲の空気が暖かくなったように思う。
暖炉とか松明とかではなく、ちいさなろうそくの火が灯っているときのような、わずかな。
「……星の見守るあまねく大地に、その力、満たし給え」
キャロルの、少し強い口調が天からの声のように降ってくると、なんだか周囲が明るくなったように感じた。
瓦礫の上に立ち上がるキャロル。
美しい青いドレスも、そこから覗く白い手足も、背中の黒髪も、すっかり汚れてしまっているのに。
それはそれで、美しい絵画のようだ、と思った。