四章 (1)
ひときわ大きな日干し煉瓦が積まれた、ひときわ大きな建物の二階の窓から、それは落ちてきた。
カシャンというガラスが砕ける高い音と、飛び散る赤い液体。
近くにいた人々は、びくっとその残骸に目をやり、そして目をそらした。
頭上からは悲鳴も怒声も聞こえなかったが、人々は早足にその場を離れていった。
建物の二階の一室では、ひときわ大きな椅子に座した男性を前に、数人の男たちがひれ伏していた。
「どういうことだい? リャンの神殿を壊せば、あの町の結界は消えるんじゃなかったのかい?」
椅子の上から見下ろす男は、奇妙な姿をしていた。
衣装は少しばかり派手だが、平民ではなく特権階級だとわかる程度だ。
褐色の肌は、この国ではもっとも一般的だ。
だが銀の髪というのは珍しいものだ。
この国だけではない、近隣でも銀の髪は珍しいものだ。
だが、もっとも奇妙なのは、その双眸だった。
左は金、右は紫という摩訶不思議な色をしていた。
彼が誕生したときに、国中の占い師に視させたが、吉凶を誰も占えなかったという。
「結界は消えたのです。 術者と思しき女魔法使いも縛り上げましたが、次の攻撃に移る前に結界が復活したのです」
額を床につけたまま男のひとりが言うと、椅子の男性がはあ? と見下ろした。
「術者のひとりくらい、殺せばいいだろうよ。おまえら、なんのために魔法を封じる魔法を研究してる?」
色のちがう双眸が見下ろすと、目も合わせていないのに、男たちは竦み上がった。
「そ、それは……」
「オラディオンの魔法使いにはかなわない、とまだ言うのか」
「それも、あります、が……」
揃って言葉を濁す部下たちに、銀髪の男はワインボトルを投げつけた。
頭に瓶を食らった男から滴るのは、ワインか、血か。
「なんだい? ほかに理由があるなら、さっさと教えてくれ」
椅子に座り直し、足を組んで、男は再度促した。
「そ、その魔法使いは……」
誰かがおそるおそる口をひらく。
「その魔法使いは?」
「殿下と同じ、瞳の色が違う女でした」
聞くや否や、男が椅子から立ち上がった。
金と紫の瞳は燃えるように揺らめき、銀の髪は怒りで逆立っていた。
伏した男たちは、伏したまま後退った。
「いまいましい! オラディオンの魔法使いめ!」
怒鳴り声は雷鳴のごとく、空気を震わせた。
魔法使いの部下たちを下がらせると、入れ替わりに褐色の肌に黒髪の女が入ってきた。
容姿も、色彩も、ごくごく一般的だ。
「イヴリアーデさま、ディアのインデア卿から書状が届いております」
「首都から動かぬ長老殿が、なにかい?」
「オラディオンとは事を構えたくないから、あまり刺激するな、というようなことですわ」
「ふん。西の国境を預かったのは僕なのだから、僕の好きなようにする。そのために魔法使いまで飼っているのだからね」
彼女が差し出す書状を受け取ろうとはせず、男は立ち上がった。
ひときわ背が高く、ごく普通に人々を見下ろせる。
男、イヴリアーデ卿は、ここインニルディア西部の部族長の家に生まれ、その奇怪な色彩以外は、伝統的とでもいえるほどに、インニルディア人の容姿をしていた。
だが、色彩のおかげで、その顔だちもよくよく見ないとわからない。
「魔法使いどもは?」
「さきほどあなたが追い出したのでしょう?」
「それはわかっている。報告書は?」
「きちんと提出されていましたわ」
イヴリアーデは舌打ちして歩き出した。
女は書状を机に置いて追いかける。
「連中、僕の前ではろくな報告ができないのに、報告書はやたら細かくて丁寧なんだ。なんであれを口で言えないんだい?」
「……あなたが恐ろしいからではありませんか」
「たずねたことにちゃんと答えないから、僕は怒るんだよ?」
そうかしら、と女は思ったけれど、口にはしなかった。
イヴリアーデは自分の宮殿の中を歩いて行くが、途中で誰かと顔を合わせることはない。
宮殿で働いている人々は、主人が近寄る前に身を隠すからだ。
従妹で側近であるルーダ以外、イヴリアーデに話しかける人物は、いない。
美しい中庭には目もくれず、離れの建物へと足を踏み入れる。
内部の人間はさすがに隠れはしないが、緊張した空気になる。
そもそも、この建物は他とはずいぶん違った雰囲気に包まれている。
ここは、魔法使いたちに、魔法の研究をさせている場所だった。
隣国オラディオン王国は、領土は大きくないが、大陸随一の強力な魔法使いたちを有する国である。
もともと豊かだったとは言えない国だったが、長年、外敵からの侵攻もなければ内乱もない。
あまり豊かではないがゆえに、持っているものをすべて守ろうとしているように見える。
それが、あの国全体を覆う結界だ。
イヴリアーデのような魔法などまったくわからない人間には、見ることも感じることもできないが、けれど確実に、そこに壁がある。
あれがある限り、あの国には攻め込めない。
なのでインニルディアや近隣から集めた、わずかでも魔法の使える者たちに、金と場所を与え、魔法の研究をさせている。
が、成果は芳しくなかった。
こちらには、攻撃魔法らしい魔法がない。
魔力が足りないとかなんとか。
知ったことではない。
魔法の壁がある、とはいえ、なにもかの国と行き来ができないわけではない。
インニルディアだとて、いやイヴリアーデが治めている領地でさえ、いくらかの交易がある。
なので商品とともに斥候も送りこんでいるが、いまのところ、決定打は見つけられていない。
緑色の光がぱちぱち、とはぜている。
炎ではなく、魔法の光だそうだ。
なにかの実験をしているのだろうが、いちいち仔細を聞いたりはしない。
結果がすべてだ。
彼らだってわかっているだろう。
イヴリアーデは奥の部屋に入っていく。
やや天井の高い、そして高いとこのほうが明るくなっている、独特のつくりの部屋だ。
そして中央には大きなテーブル。
その周辺にぐるりと男たち。
一瞬しん、となるが、軽い咳払いのあと議論が再開する。
魔法とは、学問のようなものだ、という。
まだ誰も答えを知らない事象を、実験ではなく、話し合いで答えを探るのだという。
正直そんな方法で答えなどわかるのか、と思うのだが、オラディオンには結界が張ってある、という結論を導き出したのは、この会議なのだ。
そしてその結界は大きなひとつではなく、複数のものが重なり合っている、という。
前線の盾部隊のようなものだろうか。
盾が複数並んでいるのなら、全部を破壊しなくても、ひとつかふたつ打ち破れば、そこから入れるし、その周辺も壊しやすくなるのでは、というのが最近導き出された答えだ。
それがつまり、今後の方針になる。
結界を張る方法についてはわかっていないが、術者が人柱になっているのでなければ、それに代わる要のなにか、魔術的祭具があると考えられている。
ではどこにあるのか。
考え方の候補はふたつ。
人口の多い町の中心で、町を丸ごと守る。
あるいは逆に、人の近づかない場所に置いて存在を隠して守る。
どちらもあり得そうだったので、どちらも調べさせた。
目標に定めたオラディオンの町は、リャン。
オラディオン人が東都と呼んでいるところだ。
役所はあるが、為政者が住まう宮殿のようなところは見当たらない。
けれど他と異なる存在感を放つものがあった。
神殿、と呼ばれるものだ。
なんでも神殿というのは、大きな町、ある程度の規模の町にならだいたいどこにでもあるらしい。
一般市民でも入れるが、祭壇と呼ばれる最も神聖な場所は、高位の魔法使いしか近づけないのだとか。
神官ではなく、魔法使い。
これだ、と、そのときこの部屋にいた全員が沸き立った。
イヴリアーデも思わず喜んだくらいだ。
斥候や商人からの情報と魔法使いたちのかき集めた知識から、机上で答えを探していく。
そして、リャンの町の結界の要があるであろう神殿の爆破作戦は決行されたのだが……。