四章 (2)

「カノープスさま!」
 部屋に入るなり、その声が突き刺さるように届いて、アルスはびっくりした。
 白いマントの人々が集まっている中から、小柄な紺色の制服の少年が走り出てくる。
 アルサフィナだ。
 ほんの数時間はなれていただけで、アルスはちょっと、なつかしいと感じてしまった。
 けれど隣にいた魔術師はそうは思わなかったらしい。
 走ってきた少年のおでこを、ぺんっと叩いた。
「わたくしはカノープスではありません」
 ぴしゃりといつもの口調で釘を刺す。
 アルサフィナはおでこを押えて止まった。
 痛かったようだ。
 ここは、はじめにアルサフィナが、見習いの宿舎だと言っていた建物だ。
 外壁は少し汚れているように見えたが、ほとんど無傷だ。
 キャロルが迷いなく歩いて訪れたこの部屋には、大勢の見習いたちがいた。
 キャロルは少し腰をかがめてアルサフィナに手を伸ばした。
 ほどけかけている胸の大きなリボンを結びなおしてやる。
「アルサフィナ、アークトゥルスどのは?」
「はい、さきほどまで、おられました」
 少年が顔を上げてすらすら答える。
 と同時に、アルスたちが入ってきたのとは別の扉が開いた。
 背の高いアークトゥルスさまがすぐに見える。
 その後ろに、何人か人が続いて入ってくる。
「キャロラインどの。ご無事でしたか」
 すぐにこちらに気付いて、アークトゥルスさまがやってきた。
 見習いたちが音のしそうな勢いで道を開ける。
「魔力が途切れたので、ただならぬ事態だと思っていたのですよ」
 そして、キャロルの姿を見て、眉をひそめた。
 この場で最もボロボロの格好をしているのがキャロルだ。
 それがドレスに素足なので、違和感がすごい。
「まさか戦闘になったのですか」
「いいえ、まさか」
 キャロルはいつも通りの丁寧だけど、突き放したような口調で肩をすくめた。
「戦ったのでしたら、わたくしこんなになりませんわ」
「ああ、たしかに。それではなにが……」
「それは後ほどご報告しますわ。それより支石です」
 キャロルが話題を変えると、アークトゥルスさまが静かに彼女を見つめた。
 支石、というのが気になったのか、それとも別のことが気になったのか。
 けれど支石という言葉に、アークトゥルスさまの後ろにいた人々が動揺した。
 この人たちは見たことのある服を着ている。
 きっと神殿の神官とかそういう人だ。
 王都で見たことがある。
「急ぎ支石を探し出し、魔術師さまに結界を……!」
「ああ、大丈夫です。いま術は最後まで完了させてきましたから」
 けれどそんな人たちを、キャロルは軽くあしらう。
 目を合わせることも、微笑むこともない。
「ただ、祭壇が崩れてしまっているので、安置できる良い場所はないかしら」
「ふうむ、しかし」
 アークトゥルスさまが手を顎に当てて口をひらいた。
 こちらも神官のことはあまり、というかほとんど無視だ。
「支石はあの場所が良いのであそこに置いてあるのだよ」
「そう、ですわよね」
「ということだから、あれはわたしでなんとかするよ」
「ではお願いいたしますわ」
 キャロルは汚れたドレスをつまんで、優雅にお辞儀をした。
 アークトゥルスさまが歩き出すと、その後ろを神官たち、そして魔術師見習いがついて行く。
「ああ、アルス」
 人々の移動にちょっと気圧されていたアルスは、急に呼ばれて慌てて姿勢を正した。
 呼んだのは、アークトゥルスさまだった。
「はい!」
 立ち止って振り返るアークトゥルスさまに敬礼。
「無事届けてくれて、ありがとう」
「はい」
 端的に告げられ、短く返答。
 それでアークトゥルスさまは行ってしまわれた。
 ふう、と息を吐いて、アルスはキャロルを振り向いた。
 彼女は少し考え事をしている様子だったが、アルスの視線に気づくと口をひらいた。
「この神殿での仕事はすんだけど、この格好のままでは歳星宮に行けないわよねえ」
「そのまま、というのは、どこに行くのもマズいかな」
「そうよねえ。でもわたしがいつも使っていた部屋、崩れちゃったのよね」
「そ、そうなのか」
 そんな部屋があったのか、と思うと同時に、神殿が倒壊するという大事件に、あまり関心を持っていないキャロルに改めて驚く。
「アルスはどこの部屋に通されたの?」
 訊ねられたので説明すると、ああ、と彼女は頷いた。
「じゃあとりあえずその部屋でお風呂にしましょう」
「は?」
 さっさと歩きだすキャロルを見送……りそうになって、あわてて追いかけた。
「アルサフィナ、街までおつかいに行く元気はあるかしら」
「はい! 行けます! 行けますよ!」
「ではわたくしのドレスと靴を一式、頂いてきて」
「わかりました!」
 アルサフィナは元気に返事をすると、駆け出して行った。
 キャロルはそれを見送っているのかいないのか、淡々と歩き続ける。
「キャロル……裸足で痛くないか」
 実はずっと思っていたのだが、あまりに自然にふるまうので、言い出せなかったのだ。
「まあ、痛くないこともないけれど。なあに? 痛いと言ったら抱えて連れて行ってくれるの?」
「そうしたほうがいいなら、そうするよ」
「……冗談よ。平気」
 アルスは真面目に答えたのだが、キャロルは静かに否定して、すたすたと階段を上っていく。
 そしてアルスが通された客間に着くと、さっさと奥の扉に入っていった。
 お風呂にすると行ってここまで来たのだから、あの奥にはそういう設備があるのだろう。
 まるで自分の家のように、どこになにがあるのかを知っている。
 アルスは脱力して、ソファに沈み込んだ。
 少しは力になれたかと思ったけれど、振り返ってみるとたいして自分はなにもしていない。
 役に立っているのだろうか。
 いや、でも。
 ここには魔術師見習いが大勢いるのに、だれもキャロルに手を貸そうとしないのはなぜだろう。
 ふと、王立学院にいたころを思い出した。
 アルスをはじめ数名の生徒と、それ以外の大半の生徒との間にも、透明な壁のようなものがあった。
 あれに似ていないか。
 優秀な魔術師は、自分たちとは関係ない存在だと思っているのだ。
 順位付けをされる集団というのは、どこも同じ構造だということか。
 部外者のアルスだから、できることがある……のだろうか。
 ひとりの考えに沈んでいたら、扉が叩かれ、返事をする前に開けられた。
「ただいま戻りました!」
 元気なアルサフィナの声に、目を開ける。
「ああ、おかえり」
「姉さまは、あの奥ですよね」
「ああ」
 アルサフィナも、あの奥に風呂があるのを知っているらしい。
 手に持って帰ってきた箱を抱えたまま、奥の扉の向こうに消える。
 と思ったら箱を置いて出てきて、そのまま部屋からも出ていってしまった。
 キャロルに別のおつかいでも頼まれたか。
 そして間もなく奥の扉が開いて、青いドレスの姫君が現れた。
 ……青いドレス?
 いや、デザインはちがう。
 けれど印象の似通ったドレスだ。
 さっきアルサフィナが届けた箱の中身だろう。
 それとほぼ同時に、アルサフィナが戻ってきた。
 飲み物を乗せたワゴンを押している。
 これをとりに行っていたのか。
 よく働くアルサフィナがお茶を用意しているのを眺めていたら、キャロルが隣へ座った。
 はっと我に返る。
 キャロルが片方の目で覗きこんできた。
「アルス、大丈夫?」
「え? 俺はなにも」
 なにもしていない。
 そう思った。
「魔法の媒介は体力を消費するのかしら。わたしは全部吸い込む体質だから、わからないのよね。あとでスピカどのにでも訊いてみましょう」
 ふう、と息を吐いて、キャロルはソファにもたれた。
 アルスより、彼女だ。
 たくさん仕事をしているのは。
 アルサフィナがいれてくれたお茶をいただきながら、あ、でも、とキャロルがふと顔を上げる。
「あとひとつ、付き合ってもらわないといけないわ」
「俺が?」
「ええ。一緒に魔法石商まで」
 キャロルがペンダントに触れながら言った。
「これ、簡易だから」
 そういえば、そう言ってたような。
 思ったより時間がなくて、とりあえず簡易で、みたいなことを。
「姉さま! それ、僕もついていっていいですか?」
「ええ、いいわよ」
 やった、とアルサフィナが目を輝かせる。
 魔法の道具なのだから、やはり興味があるのだろう。
 たくさん魔法について勉強し、一方で付き人がするようなおつかいもこなす。
 アルスだって他人よりはたくさん勉強する類の子どもだったけれど、この子くらいの頃は、まだもう少し遊んでいたように思う。
 アルサフィナがすごいのか。
 いやちがう。
 魔術師というのが、そもそも自分たちとはちがうのだ。
 だって、キャロルに勧められて、神殿が魔術師のために用意していたのだろう菓子を口にしたアルサフィナは、すごくおいしい、と興奮している本当に普通の少年なのだ。
「じゃあ休憩したら三人で散歩に行きましょう」
「いいけど、神殿のほうはいいのかな。甚大な被害が……」
「いいのよ」
 キャロルはすぱっと言い捨てた。
「魔術師は口出ししないほうがいいの」
 彼らの世界は、なんだかものすごく複雑だ、と思った。