五章 (1)

 アルスはひとりで、大通りを歩いていた。
 騎士のマントと剣を布でくるみ、手荷物のように提げて、あまり上等とはいえない外套を羽織っている。
 渡された地図を見ながら歩く自分は、ただの旅人に見えるだろう。
 つまりこれは、変装なんだと思う。
 魔術師の護衛で来たはずなのに、護衛対象とは別行動だ。
 これでいいのか、と思う。
 目印の建物を見つけて、通りを曲がる。
 町の外に向かうようだ。
 わかっている。
 活気のある町を進む。
 大小の水路が張り巡らされた間を通り、ちょっとした橋を渡りながら思う。
 キャロルという魔術師に、自分のような剣士の護衛など、実は必要なかったのだ。
 おそらく、彼女自身もそう思っているにちがいない。
 ただアルスは自分でも知らなかったが、魔術師から見ると自分は特殊な体質のようだった。
 でもキャロルがそれを利用していたのかどうかは、よくわからない。
 ほかの魔術師の方が、使えるなら使おうと思ったのは、まあ、理解はできる。
 ただひとり、キャロルの思惑だけが、よくわからない。

 町のはずれまでやってきた。
 城壁のようなものはないが、水路で町は囲まれているようだ。
 町の外へ出るには、大きな橋を渡って監視のいる門をくぐるのが必至のようだ。
 とはいえ、通行証が必要などの硬い警備体制ではない。
 いかにも旅人風の装いで、きょろきょろしながら通り過ぎれば、お咎めなく通過できる。
 町の外に出ると、少し湿気を感じる土の道が伸びていた。
 馬車の轍が無数に残っている。
 その道を少し進むと、狩り小屋、という小さな看板が左の小道へと誘っていた。
 そちらの道は森の中へと続いており、前方はだんだん暗く、振り返ってもアルスの足跡しかなかった。
(ここで、合っているんだよな……)
 少し不安になりつつ歩を進めると、突然ぽかっと視界が開けた。
 小さな小屋が建っており、水場や薪などもある。
 なるほど、狩りをするときに使う場所なのだろう。
 アルスは小屋の窓をそっとうかがったが、中は暗く人がいる様子はない。
 そして周囲からの視線も感じない。
 人はいないと思う。
 それでも布の上から剣を掴み、警戒しながら、無造作に見える動きで小屋の入り口の扉を開けた。
 人の気配は、ない。
 音、匂い、異常は感じない。
 よし大丈夫、と思って、中に足を踏み入れた。
 その瞬間、ぱっと部屋に明かりがついた。
 同時に背後で扉が閉まる。
 気配、音、匂い、すべてが変わった。
 アルスは、ぽかんとしてしまった。
 その視線の先でキャロルが振り返り、顔を半分だけこちらに向けて、少し微笑んだ。
「ご苦労さま、アルス」
 キャロルは外套を脱いでいるところだった。
 アルスがいま着ているものと同じような、どこにでもありそうな、でも着古している感じの灰色の外套。
 それを脱ぐと、見慣れた青いドレスに戻った。
 後ろでまとめられていた髪も解いて、いつものような自由な感じをとり戻す。
 昨日までとちがうのは、青い石のペンダントをつけているという点だけだ。
「アルスももうその変装、解いていいわよ」
「あ、ああ」
 ぽかんとしたのちきょろきょろしているアルスにキャロルが声をかけた。
 アルサフィナが相変わらず駆け回っているのは、次の行動の準備だろう。
 アルスも急いで荷物をほどき、外套を脱いで騎士団のマントを羽織り、剣を佩く。
 制服というのは堅苦しいという人もいるが、着慣れるととても落ち着くものだ。
「えっと、キャロル、このあとは?」
「森の奥の湖を渡るわ」
「湖?」
「そう。龍神が棲むという伝説がある、リャン湖よ」
 ああ、と記憶をたどる。
 宝石商で言っていた伝説か。
 水の魔法の源、だったか。
 しかし。
「そこは、そんな伝説があるなら、神聖な場所、なんじゃないのか? 俺が行ってもいいのかな」
 アルスが素朴な疑問を口にすると、キャロルは表現しづらい表情をした。
 馬鹿にされている感じではなさそうだけど、不思議そう、というか面白そう、というか。
 ああ、珍しがられているのか?
「確かに神聖な場所ではあるけれど、邪な気持ちがなければ、いいんじゃないかしら」
「そ、そうか」
「ええ。そういう場所だから、こうして結界で隠しているのだしね」
「隠している? 誰から?」
「そうねぇ」
 キャロルはかるく手招きして歩き出した。
 いつの間に準備を終えたのか、アルサフィナも手荷物をもってそれに続く。
 なのでアルスも追いかけた。
「誰から隠しているのかと言われたら、やっぱり敵から、ということになるのでしょうね」
 小屋には、入ってきたのとは反対側にも扉があるようだ。
 キャロルがごく自然に扉を開けると、外は輝くように明るかった。
「て、敵?」
 少し物騒な単語に驚いて、それから外に出たら森の雰囲気が違っていて驚いた。
 緑は瑞々しく眩しく、土もなんだかふかふかしている。
 あの暗くて不安になる小道の続きとは思えない。
 これは魔法なのか。
 いや、もしかしたら、あの薄暗い森のほうが魔法なのか。
 踏み入れた時とはまるで異なる、豊かで明るい森を進むと、前方がさらに明るく見えた。
 いや、なにかがキラキラと輝いているようだ。
 キャロルの背を追いつつ、速足になり、そして森を抜けた。

 驚いた。

 目の前に、大きく美しい湖があったのだ。
「これがリャン湖です。ね、龍神さま、いそうでしょ?」
 アルサフィナがにこにこして言う。
「あ、ああ……」
 まったく気が利いた答えが出来ずに、アルスはただ頷いた。
「舟、着てますね。行きましょう」
 駆けだすアルサフィナを目で追う。
 ふね?
 そこには確かに舟があった。
 が、三人も乗ったらいっぱいになりそうな小さな木製の小舟だった。
 キャロルがここまで来るのに使っていた馬車は、とても立派なものだったので、なんとなく立派な船が迎えにくるのを想像していた。
 小柄なアルサフィナを追いながら、この少年が馬車を操っていたのだが、舟は? と思い至る。
 さすがに自分の出番か?
 舟を漕いだことはないのだけれど。

 一足先にキャロルが舟に乗り込んだ。
 ドレスの裾をちょっと持ち上げて、まるで妖精のように軽やかに飛び移る。
 舟はほとんど揺れない。
 そういえば王都を出るときの彼女を見て、なんとなく湖のほとりに立っているかのような印象を受けたのを思い出した。
 なんだろう。
 彼女には水の加護がある、というか、そういう感じだろうか。
 続いてアルサフィナが身軽に飛び移る。
 舟はやっぱり、ほとんど揺れない。
 それに、舟には櫂がない。
 舟についてはまったく詳しくないが、さすがに少しおかしい。
「アルス」
 舟の先のほうに立ったままだったキャロルが、顔を半分だけこちらに向けた。
「どうぞ。豪快に飛び乗っても大丈夫よ。これは魔術師の舟だから」
「あ、ああ」
 頷く。
 そうだ、馬車のことも、魔術師の馬車だから大丈夫と言われた。
 その意味するところはわからないけど、きっと同じことだ。

 魔法のことなんてなにも知らない一般人には想像がつかないくらい、魔法の力に取り囲まれている。
 魔術師たちによって、街も森も、王国全体が、魔法によって守られているらしい。

 アルスはえいっと勢いをつけて舟に飛び乗った。
 多少は揺れたが、問題ない。
「じゃあ座って」
 キャロルに促されて急いで腰を下ろす。
 彼女がずっと立っているのは、どうやらアルスを待っているようなので。
 座ると、思っていたより広く感じだ。
 馬車に乗ったときと同じ感じだ。
 そしてキャロルが前を向いた。
 湖の向こう側を見て、そして片手を上げた。
 すうっと舟がわずかに浮いた、ような気がした。
 それから滑るように進みだした。
 完全に浮かび上がっているわけではない証拠に、舟が進むと水飛沫があがって、水面に波紋が広がっていく。
 そんな水面を見ていると、アルサフィナが振り向いた。
「この魔法は、ものすごく特殊なんです」
「特殊?」
「はい。魔術師さまが二人いないと出来ない魔法なんです」
 そう言ってアルサフィナは、湖の向こうに目を向ける。
 なんだかその目が輝いている。
「ふたり?」
 アルスは顔を上げた。
 ひとりはこの舟に乗っているキャロルで、それならもうひとりは。
「この湖は、向こう側の魔術師さまに呼び寄せてもらわないと、渡れないんですよ」
 それはつまり、こちらとあちらに、この同じ魔法を同じように使える魔術師がいなければならない、ということか。
 それはやはり、敵の侵入に備えている、ということなのか。

 敵。
 騎士団、という組織に属しながらも、実際はおろか、架空の敵を想定することすらほとんどなかった。
 けれどキャロルの供で王都を出て以降、実はその辺に敵が潜んでいる可能性がある、という現実を知った。
 でも敵とは誰なのか。
 アルスには肝心のところが見えてこない。

「あ、見えてきました! スピカさまー!」
 アルサフィナが大きく手を振った先へ、アルスは視線を向ける。
 大きな湖の向こう岸がようやく見えて、言われてみれば人影があるような。
 目を凝らしていると、やがて見えてきたのは、湖岸の魔術師の姿ではなく、その背後に建っている宮殿だった。
「さあここが、東の離宮、歳星宮よ」
 キャロルが静かに、その名を告げた。
 まるでそれは、なにか天からのお告げのようだったのだ。