五章 (2)
舟は動き出した時と同様に、すうっと静かに止まった。
横付けされた小さな桟橋の先に、魔術師が立っている。
全体的に白っぽい色彩。
スピカさまだ。
こちらで魔法を使っていたということは、キャロルが来ることを知っていたということだ。
そして王都を出発する際に一緒にいて送り出してくださったのはこの方なので、アルサフィナとアルスが一緒なのもご存じのはず。
キャロルが軽やかに舟を降りて、続いて降りたアルサフィナは慣れた様子で舟をロープで固定している。
アルスも急いで降りるとキャロルの後を追った。
が。
「スピカさま?」
アルサフィナが声をかけた。
アルスは足を止めたが、キャロルは一切振り向かないで進んでいく。
「スピカ兄さま?」
なぜか固まったように動かなかったスピカさまが、アルサフィナに覗き込まれて、はっ、と動き出した。
スピカさまは色が白くて細身なので、じっと立っていると儚い印象すら与えるけれど、動き出すと一転、ぐんぐん速足にアルスを追い越し、薄い水色の瞳でじろりと見られて、まあどちらかというと怖い人、だと思う。
「東都の神殿は大変なことになっていると聞いたぞ」
「そうですわね」
「一応確認するが、大丈夫だったのだろうな」
「結界の術は完成させてきましたし、支石はアークトゥルスどのにお任せしてきましたわ」
「それは安心だ。ではなく、おまえたちのことを訊いたのだがな」
「見てのとおりですわ」
キャロルはそうとしか言わなかった。
まるで他人事のようだ。
彼女は全然、大丈夫じゃなかったのだけど。
ふたりの後を追いながら、なぜかアルスだけが、焦るような戸惑うような、追いつかない感じだ。
あの緑の魔法のことを、言わなくていいのか?
そんなアルスにはお構いなしで、青いドレスの魔術師と、白いローブの魔術師は、その入り口をくぐった。
すると重い音がして前方の扉がゆっくり開く。
これも、魔術師でなければ開かない魔法の仕掛けだろうか。
敵がここに乗り込んでくるのは、簡単なことではない気がする。
敵。
中に入ると一瞬、不思議な感覚にとらわれる。
なんとなく王宮に似ているので既視感のように感じるのだが、見た目の色彩がまったく異なるので、王宮には全然似ていないように思えるのだ。
くらくらする頭を押さえてキャロルを追おうとするが、彼女はいつもに増して速足に、どんどん進んで行ってしまう。
追いかけてアーチ形の入り口のようなところをくぐると、今度は突然視界が開けた。
そうか、いままでは廊下のような通路で、ここがエントランスホールか。
正面には左右対称の優美な階段。
その階段を見上げると、自然に目に入る大きな肖像画が、左右に一枚ずつ。
左の絵は、きっと王だ。
かつての王の肖像画。
この土地と所縁のある方なのか。
右側の絵は、王と言われたら王かもしれないし、騎士と言われたらそうかもしれない。
ずいぶんと古い時代の装いをしている。
思わず立ち止まって見上げていると、隣に誰かが並んだ。
見ると、スピカさまだった。
キャロルの姿はどこにもない。
「あの方がどなたかわかるか」
スピカさまが口を開いた。
視線は左の絵。
「いえ。王族の方、ですよね」
「そうだ。第二十九代国王、アルスラーン陛下だ」
「えっ」
息をのんだ。
もちろんその名は知っている。
アルスと同じ名前の王。
王の名だから、自分につけられるはずのない名前。
「アルスラーン……陛下は、こちらになにか縁が?」
「いや。東都に来られたことがあるかどうかはわからない」
「では、なぜこの肖像画はここに?」
「それは、かの陛下が〈水の器〉だったからだ」
なんだって?
アルスはきょとんとした。
なんの名称だろうか。
どこかで耳にしたことがあるような。
「なにを不思議そうにしている。おまえも〈水の器〉なのだろう?」
「え?」
言われて、やっと思い出した。
あの魔法石商でキャロルに言われた単語だ。
「あ、あの、国家機密級だという漏斗の体質、のことですか?」
「漏斗、て……」
スピカさまは思いっきり呆れた顔をされたが、すぐに真顔に戻った。
「キャロルが龍のうろこを身に着けていたし、だいたい名前がアルスラーンだしな」
「俺の名前は、それでアルスラーンなのですか?」
「おそらくな。ウィミナリスがやりそうなことだ」
スピカさまはぼそっと呟くと、歩き出した。
「ついてこい。ここまで来たからには、キャロラインの役に立て」
「はっ!」
アルスは騎士らしく敬礼した。
どうやら自分には、ちゃんと役に立てることがあるらしい。
スピカさまは目の前の階段を上るのかと思いきや、その裏側へと進んで行く。
まるで抜け道のような穴のようなところを腰をかがめてくぐりぬけると、まるで別の建物に入ったかのように雰囲気が変わった。
さっきの場所が宮殿ならば、ここは神殿だろうか。
青い石材はきっと同じ。
並んだ柱からは優美な印象を受けるのも同じなのに。
まっすぐに進んで行くと、高くなったところに天蓋が張られていた。
思わず足が止まる。
まるで、王族の寝台のような特別な場所。
「言っておくが、あそこに近づくと命がないぞ」
「え」
隣で同じように見上げるスピカさまが呟いた。
これは脅しではなく、忠告、いやただの事実なのだろう。
そのとき天蓋の隙間から、キャロルの青いドレスが出てきた。
首を垂れて後退るように。
まさに高貴な御方の前から退出するかのように。
キャロルはそっと紗を下ろしてから降りてきた。
スピカさまが、まるで天井に息を吹きかけるかのように、ふっと息を吐いた。
すると空気が変わった。
ここまで何度か体験してきた、魔法の結界だ、と感じる。
そんな、息を吐くだけで出来るようなものなのか。
いや、スピカさまがすごいのか。
結界の中でキャロルが息を吐いた。
こちらは溜め息だ。
「良かった。問題なかったわ」
キャロルがこれまで見せたことのない表情で言った。
見たことはないが、見ればわかる。
これは安堵の表情だ。
彼女は安心したのだ……何に?
「そうか。もちろん異変はないと思っていたがな」
スピカさまもほっとした顔をしている。
異変?
そしてキャロルがふと、アルスに気付いた。
「ああ……わたくし、すっかり彼のことを忘れていましたわ」
「だろうな。目に入っていない様子だったので連れてきた。まあ、向こうで待っていても良かったのだろうが」
そうですわねー、と呟いて、キャロルがアルスを見た。
彼女に正面から見つめられると、どきっとするのは、あの瞳の色のせいだけではないと思う。
「アルスラーン」
名前を呼ばれた。
なんだか緊張して、返事も出てこない。
「せっかく結界の中にいるのだから、少しお話ししましょう。でも、ここを出たら、ここで聞いたことを口にしては駄目よ。あなたの命にかかわるわ。それどころか、国家の存亡にかかわるわね」
息を吸った。
でないと、なんだか息が止まりそうだと思ってしまったのだ。
そう、ずっとキャロルは、彼女とほかの魔術師は、そういう話をしていたはずだ。
でも、肝心のところがわからないので、アルスにはずっと、よくわからない、と思えてならなかった。
息を吐いた。
「わかった。約束する」
そういうと、キャロルがアルスの胸の前で、くるりと指で円を描いた。
「疑っているわけではないのだけどね、本当に重要なことなので、ちょっと魔法をかけさせてもらったわ」
「ああ。かまわない。それで、教えてほしい」
やっと、訊ける。ずっと考えてきたことを。
「君たちは、何から、何を、守っているんだ?」
キャロルが、くすっと笑って答えた。
「敵から、この国を、守っているのよ」
それはそうだがな、と隣でスピカさまが呟いた。
「この国を守る、というのは抽象的すぎるというのでしょう? この国の魔術師と呼ばれる人々は、国全体に結界を張っているの。これは最大にしてほぼ唯一のお仕事。そしてそのためにこの国で最も大切な守るべきものは、結界の五つの要石。王宮やら王族やらではないの」
スピカさまが片耳の石飾りをいじりながら、他所で聞かれたら大問題だ、と軽口を叩いた。
つまり魔術師の役割が、そもそも結界を張って守る、ということなのだ。
「わかった。じゃあ、敵って、誰だ?」
アルスは少し勇気を出して、慎重に口にしたのに、キャロルはいとも簡単に答えた。
「それは結構多いのよ。周辺諸国はだいたい敵ね。こちらは単純明快だと思うのだけど」
「そうなのか?」
「あなた、地図を見たことはあって? オラディオンはとても小さな国なのよ」
「それは知っているけど。でも隣国が必ずしも敵とは限らないのでは? それとも俺が知らないだけで、どこかの国と争っているのか?」
「それがね、敵だらけなのよ、残念ながら」
キャロルが困ったような笑顔で、ため息をついた。
スピカさまも、ため息をついた。
とりあえず状況は理解できた、のだと思う。
これが歴史書に書かれていることなら、アルスはきっともっと冷静に理解した。
でも、単純明快なほど周囲が敵だらけ、というのは、どうも俄かには、信じられなかったのだ。