少年はぱたぱたと走ってその斜面を駆け上がった。
 黒い髪がつんつん立った頭に、幼い面影。
 周囲よりちょっとだけ高くなったその場所に辿り着くと、赤いバンダナの下の目を、両手でぐいぐいと擦った。
「ちくしょー……」
 思わず悔しくてそんな言葉が口をつく。
 この森のような緑色をした瞳はきらきらしているが、充血してぐちゃぐちゃな顔だ。
「なんでっ! オレだけ……!」
 少年は俯いてぎゅっと目を瞑った。
 するとまた目に涙が滲んでくる。
 こういう気持ちを惨めだ、と表現するのだとは、まだ十歳の少年にはわからなかった。
 そしてまた、ここで大声を上げて泣くのもカッコ悪い、と思う気持ちは十歳でも充分にあって。
 けれど、あとから溢れる涙だけは素直で。
「あう……」
 自分は泣きたいのだろうか、泣きたくないのだろうか。
「――タリスン?」
 そのとき名前を呼ばれて、少年は驚いて振り返った。
「れ、レイ? なんで……!?」
 そこに候補生最年長の少年の姿を見つけて、それまで泣いていたタリスンはおたおたした。
「レイ、こんなところにいていいのかよ。みんな神殿に集まってるぜ?」
 だから誰もいないと思っていたのに。
「ええ、知っています」
 けれどこの年上の少年は、なんでもないことのように頷いた。
「ですが風が呼ぶのでね。こちらでウサギが迷っていると」
 言われてタリスンはきょろきょろとあたりを見渡した。
 ウサギの姿をした精霊がそのへんにいるのかと思ったのだ。
 それを見て風の神官候補生レイザラードは微笑んだ。
「カリダのことではありませんよ。タリスン、ウサギのような目をした迷い子さん」
 タリスンはびっくりした。
 ウサギというのが目を真っ赤にした、つまり泣いていた自分のことだとやっと気付いたのだ。
 慌ててもう一度腕で目を擦る。
「な、泣き虫だって言うんだろ! 男なら泣くなって……!」
 それはいつも兄に言われている。
 自分だってそう思うから、こんなところで隠れて泣いていたのに。
 ここにレイが来たら駄目じゃないかっ。
「かまいませんよ」
 けれどレイザラードはなんでもないふうに言って、タリスンのほうに近寄ってきた。
 風もないのに黒い髪が一部さらさらと動いているのは、風の精霊が遊んでいるのだろう。
「あなたには泣くという心がある。それを殺してしまう必要はありません」
 レイザラードは、まるでそこに椅子にするために置いてあるかのような石に、慣れた様子で腰掛けた。
 タリスンはそれを立ち尽くしたままじっと見つめる。
「ですが……そうですね」
 レイザラードは淡々と続ける。
「神殿剣士たるもの、そうそう簡単に泣かない方が、良いかもしれません」
 そしてふわっとタリスンの顔を見た。
「う……ぇ……っ」
 タリスンは……泣き出してしまった。
「おやおや」
 レイザラードは、別段困ったふうでもなく微笑んだ。



「オレだけ、入れないんだ」
 レイザラードの足元にあぐらをくんで座っているタリスンはむすっと答えた。
 先刻、神殿で定例の、精霊の儀式をするからといってタリスンは追い出されてしまったのだ。
「みんなあの儀式に参加できるのに。サーヴィだって、入れるのに!」
 他の候補生は皆入れるのだ。
 自分にだけ、その資格がない。
 タリスンは最年少であったが、でも水の神官候補生サーヴィシャールも同じ年なのに。
「神殿に入れる資格は年齢ではありませんよ」
 レイザラードが嗜めるように言う。
 いっそ資格が年齢だったら、こんなに腹は立たなかったかもしれない。
 けれど子どものタリスンにはそれもわからない。
 ますますむっとした少年に、レイザラードは苦笑した。
「失礼、あなたにはよく解っていることでしたね」
「どーせ」
 タリスンは下草をぶちぶちとちぎりながら口を尖らせた。
「兄貴みたいに強くもないし、サーヴィみたいに頭よくないよっ」
 レイザラードは灰色の目を細めてタリスンを見下ろした。
「素質も必要ですが、努力も大切です」
「わかってるよ! ちゃんとやってるじゃないかっ!」
「そうですか」
 見透かしたようにレイザラードが見つめてくる。
 タリスンはう、とつまった。
 剣士の練習は真面目にやっているつもりだ。
 勉強も……嫌だけれど、ちゃんと、それなりに……。
 でも、いつもどれも、すぐに投げ出しそうになる。
 そう言ったことはないけれど、なんだか全部バレているような。
「ではそれで無理なら、仕方がないのかもしれません」
 レイザラードは泣いていても怒ったりしないけど、別に慰めてくれるわけじゃない。
 子ども扱いしない代わりに、本当のことを言う。
 それがときどきタリスンの胸にちくちくくるのだけれど。
「それではわたしは神殿に行きます。……ああ、カリダ」
 レイザラードが立ち上がって背を向けると、彼が何かに話し掛けた。
 タリスンも振り返って、そのウサギを確認する。
「レイザラード。みんな集まってるよ。なにしてるの」
「すみませんね、カリダを迎えにこさせて。いま行きますよ」
 たれ目のウサギが人間の言葉でレイザラードを促すと、風の神官候補生は歩き出した。
 もうタリスンのことなど振り向かない。
 レイザラードとカリダの姿が消えてから、タリスンはすっくと立ち上がった。
「おりゃーっ!」
 気合の掛け声をあげつつ、その場所から駆け下りる。
 それは子どもらしくて、子どもなりの決意表明。
 タリスンはもう、泣いてなどいなかった。