雨が降る。
水の月、というけれど、水の三の月は、一番よく雨が降る。
今日も、朝からだんだん曇ってきた空を見上げながら、神殿のみんなと急いで野菜を収穫して、男の子たちは急いで薪を割って運んで、そんな仕事が終わった頃から、雨は降り始めた。
まだ夕方だというのに、どんよりと暗く垂れ込める空は、まるで自分の心と同じだと思った。
濡れそぼった赤毛は、いつものくるくるとはねている自分の髪とは違うみたいに、雨のように下へと垂れ下がっている。
神殿の裏手の小高いこの場所は、晴れた日なら眼下に広く森が広がり、頭上にはどこまでも青く高い空が広がる。
けれど今は森も空も区別がつかない。ただ、真っ暗だ。
まるで、世界中が、泣いているように。
どれくらい。
その場所に立ち尽くしていただろう。
髪も……服も濡れて、肌にじっとりと張り付いてきた。
このままでは、いけない、と思うのだけれど。
雨は冷たくはないのだけれど。
雨は……好きではないのだけれど。
そして自分を慰めて、励ましてくれる人も、もういないのだけれど。
「スカーレット!」
名を、呼ばれて、スカーレットは振り返った。
その勢いで髪の先からしずくが飛び散る。
スカーレットは自分の目に入ってきた姿に驚いた。
そこには二つ年上の、スカーレットが姉のように慕う人がいた。
「なにをしてるの! なんてそんなことどうでもいいわ。もう、こんなに濡れて! いいからとりあえず屋根の下にいらっしゃい」
そういう彼女も、スカーレットを探していたのだろうか、随分と濡れている。
いつもは優しく波打っているその髪も、スカーレットほどではないにしろ、濡れて背中に張り付いている。
そんな姿を見て、それでも……動かないスカーレットに、彼女はもう、とわざとらしく溜息をついた。
「……あなたの気持ちなんて、あたしじゃ慰めてもあげられないけど。ひとつだけ言えるのは!」
言うなり、泥が跳ねるのも気にせずにずんずんとスカーレットに近づいてきて、ぐいっとその手を掴んだ。
「こんなに濡れて! こんなに冷えて! 風邪引くでしょう?」
「…………ターナ……」
やっとぽつんと発したスカーレットの言葉に、ターナはぐぐっと顔を寄せた。
「ええ、そうよ。わたしはターナ。あなたのことを可愛がってるターナよ」
スカーレットは目を見開いた。
どうしてそんなことを、ターナが今言うのか、わからなかった。
「だからわたしは、あなたが悩んでるなら聞いてあげたい。迷っているなら励ましてあげたい。泣きたいなら、付き合ってあげるわ。でも、今のあなたに一番必要なのは、濡れてない服と暖かい部屋だと思うのよね!」
言うなりターナは、スカーレットの手をぐいぐいひっぱって歩き出す。
つられてスカーレットも歩き出す。
転ばないように一生懸命歩く。
そうして歩き出してやっと、スカーレットは自分が随分と冷えていたことに気づいた。
と同時に、ひっぱってくれているターナの手がとても暖かいと思った。
気づいて涙が出てくる。
濡れそぼっているのは、なにも雨のせいだけではなかった。
ターナはまっすぐに食堂へと向かった。
二人が生活している部屋には、年下の二人がいるはずだから、そこにこのまま帰るのも気が引けたので、素直についていく。
ターナはスカーレットを椅子に座らせると、厨房へと入っていく。
ナタリーおばさんは仕事を終えた後らしく、食堂にも厨房にも明かりはついていなくて、薄暗い中ターナがたったひとつだけ、ランプを灯した。
その光のもとで、やかんをかける音がする。
それから光は奥のほうへと揺らめき、ターナがなにやらごそごそしているのはわかったが、何をしているのかまでは見えなかった。
しばらくして奥から出てきたターナは、今朝洗ったばかりだろうスカーレットの服を持っていた。
「部屋までとりに行くのもなんだから、これでいいわね?」
差し出されたものを黙って受け取る。
着替えなさいな、と言ってターナはまた厨房のほうに引っ込む。
スカーレットも少し座っていたら落ち着いてきて、確かにこのままではいけないと、濡れた服を脱いで身体を拭き始めた。
乾いた服は、心地よかった。
着替え終わった頃に、ターナが湯気の上がるカップをもって出てきた。
「ちゃんとできたわね。さ、あなたはこれでも飲みなさい」
そういうとスカーレットの後ろに回って、髪を拭いてくれる。
ありがたくカップを手に取ると、スカーレットの好きなカカオの匂いがした。
「……ありがとう」
沈黙の中で、最初にスカーレットが言ったのは、それだった。
とりあえずそれだけは言っておかなければならないと思ったのだ。
「そうね」
するとターナは鷹揚に言った。
「あたしが……なにしてた、とか、聞かないの?」
「あなたが言いたいなら聞くわ。言いたくないなら聞かない」
そう言われて……スカーレットはちょっと困る。
その沈黙をどう捕らえたのか、濡れた赤毛を拭きながら、年長の少女は口を開いた。
「でも言った方があなたは楽になると思うわ」
「楽に?」
そうだろうか。
スカーレットはこっそりと思う。
ターナは、まるでそんなスカーレットの胸中に答えるかのように続ける。
「ええ。変わらないこともあるでしょうね。過去は変わらないし、取り消せないし、やり直せないもの。でも、変わることもあるわ」
びくり、と身を強張らしたのを、ターナは気づいただろうか。
「そして大事なのは、変われることじゃなくて、変わろうとすること」
おしまい、とターナは軽くスカーレットの赤毛を指で梳いて、それから向かいの席へと移動して座ると、ふふ、と笑った。
「……っていうのは、いつかの誰かさんの受け売りだけど」
そういって、その誰かのようにぱちんとウインクしてみせる。
スカーレットは、また、泣きたくなった。
あの人は、いつも泣き虫の自分を慰めてくれた。
俯くと、ターナが拭いてくれていつものようにくるんと弾力を取り戻した赤毛が、頬にかかった。
ちょっと湿った髪は、ちく、とほっぺたにあたって痛いようなくすぐったいような。
「あたしの村が、焼けたのは」
突然スカーレットは口を開いた。
ターナが驚いたのかどうか、よくわからなかった。なにも言わなかったから。
「水の三の月だった」
「……そう」
たった一言だけ、返事をしてくれる。
「すごく雨が降ってるのに、どうして火が消えないのか、わからなかった」
「……そうね」
「どうして誰もいないのかわからなかった!」
手が、震えた。
カップの中身は半分くらいになっていたけれど、それが波打っていた。
「どうしてあたしはあの中にいないのかわからなかった!」
「スカーレット」
「どうしてあたしだけ、父さんや母さんや姉さんたちと一緒に村にいなかったのか!」
村は燃えてしまった。
スカーレットの大切なものも、あのときすべて燃えてしまった。
なにも残らなかった。
なら、どうして自分は残ったのだろう?
どうして?
どうして?
「わからないなら教えてあげるわ」
スカーレットは顔をあげた。
驚いた。
ターナは今、なんと言った?
「どうしてあなただけ生き残ったかですって? そんなの決まってるじゃない。ファリスタ神殿に来るためよ。そしてわたしたちに会うためよ」
はっきり言われて、スカーレットは面食らう。
「それともなに? わたしやほかのみんなといるより、やっぱりご両親と一緒に死にたかったって、あなたはそう言うの?」
え、とスカーレットは目を瞠る。
ターナは怒ったような顔でまっすぐ見つめてくる。
窓に当たる雨の音がやたらと耳につく。
「もしそうだっていうのなら、そのほうがよっぽどひどい話よね」
「え……ち、違う」
スカーレットは慌てて否定した。
そんなふうに思っていたわけじゃなかった。ほんとうだ。
「わたしやレイが、あなたをどんなに可愛がってるか知ってる? サーヴィたちがどんなにあなたのことを好きか知ってる?」
そんなこと。
もちろん知っている。
スカーレットだって神殿の仲間たちのことは大好きだ。
「あの人が……どんなにあなたのことを大切にしていたか、知ってる?」
言われて。
遂に涙が出た。
それは……わからないけれど、少なくともスカーレットは、大好きだった。
いや、もちろん今でも大好きだ。
涙が手の中のカップに落ちていく。
「わかってるんでしょ。なら泣くのもいいけど、せめて雨の中でっていうのはやめてよね」
涙できっとぐちゃぐちゃの顔を、ターナに向ける。
するとターナは溜息をついた。
「なにもわたしは泣くなとは言ってないのよ。あなたの家族が亡くなってるのは知ってるし、それがつらいだろうことはわかってるつもりよ。それを忘れちゃうほどあなたが単純でも薄情でもないこと、わたしは知ってるわ。ただね、わたしはあなたが風邪引くの、嫌なの。わかる?」
至極簡単。たったそれだけ。
そんなことのために、ターナは自分も濡れながら雨の中スカーレットを探しに来てくれるのだ。
これ以上泣いていたらばちが当たるというものだ。
「う、うん……」
スカーレットが頷くと、最後の涙がぽとん、とまたカップの中に落ちた。
「そう。わかってくれたならいいわ。ならあとは好きなだけお泣きなさい」
「えっと……あの、もう、大丈夫」
これでまだ泣けるほど、スカーレットも泣くのが好きなわけではなかった。
ターナが立ち上がって濡れた服を抱えあげる。
「あ、ターナ。それ、あたしが……」
「これはいいわ、わたしが持ってく。あなたはそのカップ洗ってちょうだい」
言われて手の中のカップを見下ろす。
せっかくターナが淹れてくれたのだけれど、半分しか飲まないうちに、冷めて、そのうえスカーレットの涙が混ざってしまった。
さすがにこれを飲むのは躊躇われて、慌てて厨房へと駆け込む。
「それにしても」
離れたところで、ぽつ、とターナが呟いた。
スカーレットに向かって言ったのか、ただのひとりごとなのかはよくわからないけれど。
「どうせなら雨の日に慰め役になるものを送ってきなさいよね、あのお馬鹿さんは」
その呟きに、そうかも、とスカーレットは心の中で思った。