星暦333年、水の二の月。
 ファリスタ神殿は、その森に開かれて以来、初めての儀式を迎えようとしていた。


 朝食を前にした朝の祈りの席で、神殿の子どもたちはそのことを聞かされた。
「すっげー! ファンダーラ、神官になるのか!」
 長い長方形のテーブルを囲んでいるのはこの神殿を預かる星の神官と、神官及び護官候補生の八人の子どもたちだ。
 一番末席に座っていた少年が、初めて知らされたその事実に、興奮して立ち上がった。
 が、それはあまり行儀のよいといえる態度ではなく。
「タリスン……」
 正面に座っている同い年の少女が、ちょっぴり咎めるように彼の名を呼んだ。
(やば……)
 タリスンはすぐに気付いたけれど、時既に遅し。やったことは取り消せない。
 思わずちらっと目をやると、隣の席の兄が怖い目で睨んでいた。
「ごめんなさい……」
 小声で、でもちゃんと謝って、行儀良く静かに椅子を引く。
(また……怒られるかな)
 タリスンは、甲羅にもぐりこむ亀よろしく、首をすっこめて小さくなっていた。
「ファンダーラの生誕の日に合わせて、カンターラの水神殿より神官が見えます。皆さんには通常と異なる仕事をお願いすることがあるかもしれませんが、ご協力くださいね」
 タリスンのことなどなかったかのように、この神殿の唯一の神官、ニールメイアは穏やかに告げた。
 彼女はどんなときでもその落ち着いた雰囲気を崩さない。
 それが神官というものだと言われたなら、タリスンには絶対に自分は神官になどなれない、と思う。
 まあ、タリスンは神官ではなくその護官候補生なのだけれど。
「ニールさま、俺は?」
 けれどそれは神官になるための、必ずしも必要な要素ではないらしい、と少年は思う。
 なぜなら彼、ファンダーラは、そういうところが全っ然ないのだから。
「あなたには別途お話します、ファンダーラ。それでは皆さん、頂きましょう。天から見下ろす星に倣って、我らは世界を見守らん。そして世界に感謝の意を」
 神官の祈りの言葉に、タリスンも目を閉じる。
(我らを導く炎に感謝を)
 そして心の中で続ける。
 こうして今日も、神殿の一日は始まる。


 薪運びを終えて彼らの宿舎に戻ると、いつもは誰もいないこの時間に、年上の少年の姿があった。
「あれ? ファンダーラ?」
「ん? タリスンか。仕事サボってないだろうな」
「サボってない! ちゃんと終わらせた!」
 いきなりな物言いにタリスンはむむっと口を曲げて、彼らの小さな家に入った。
 この神殿にいる四人の少年たちが寝泊りするための小さな家だ。
「ファンダーラこそ、こんな時間に何してるのさ」
「ん? んんー」
 けれどいつもは口の軽い最年長の候補生が、今日はあまり相手にしてくれない。
「……ファンダーラ?」
 変だなと思ってタリスンはファンダーラのベッドを覗き込んだ。
 彼ら一人一人に部屋はない。
 この一部屋に二段ベッドが二つ置いてあり、そのベッドの中が彼らの部屋とも言えた。
 ファンダーラのベッドはタリスンとは反対の壁際で、タリスンと同じ下の段だ。
 その水色のカーテンが半分だけ閉まっている。
「どうしたの? 具合が悪いの? それとも……試験、だから?」
 不安、なのだろうか?
 いつも試験とか発表とかの前は不安でおなかが痛くなるタリスンだから、その気持ちはわからなくもない。
「ばーか」
 けれど返ってきたのは……まあ、ファンダーラらしい返事で。
「むう! ばかって! なんだよ、心配してやったのに!」
 タリスンが喚くと、やっとファンダーラはなにやら目を落としていた書簡から顔を上げた。
 軽くウェーブした水色の髪をゆるく後ろで一つにまとめ、切れ長の金の瞳が意思の強そうな色を宿している。
 ファンダーラは客観的にいえば大変な美少年、なのだが、八歳のタリスンにはその辺はよくわからない。
 それよりも誰よりも口が悪い、ということで充分だ。
「だからばかって言うんだ。おまえなんかに心配してもらわなくてもいいんだよ」
 わかっている。
 タリスンだってそのくらいわかっていた。
 口は悪いけど最年長の、今十六歳のファンダーラはすごい力を持っているって、この神殿の者ならみんな知っている。
 だからこの歳で神官になる試験が受けられるんだって。
「それよりおまえが心配だな、俺は。いつまでもガキやってんじゃねえぞ」
「ええ?」
 タリスンは、八歳だ。まだ、ガキでもいいはずだけれど。
「あ、朝の? うう、あれは、ごめんなさい……」
 祈りの席で声を上げるなんて、あのあと兄にお説教された。
「それに神官になるんじゃねえよ、まだ」
「……違うの?」
「んー、候補生から抜けて準神官になるのさ」
「ふうん?」
 神殿の仕組みは、一応習ったけど何がどう違うのか、タリスンには今ひとつぴんとこない。
「まあ、まだ難しいかもしれねえな、おまえには。そのうち解るようになるさ」
「う、うん……。でも、それでも、試験に受かったらファンダーラはここを出て行くんでしょう?」
「ああ」
 それはすごく重大なことのように思うのだけれど、ファンダーラは別に普通に頷いた。
「とりあえずカンターラの神殿で修行するらしい。そこでまた頑張って今度こそ神官になるんだ」
 最年長の少年は、最年少の少年に説明してやる。
 タリスンがこの神殿に来てまだ一年だ。
 つまりファンダーラたちとの生活も一年ということだ。
 けれどその一年には、サーヴィシャールが途中でやって来た以外、あまり変化はなくて、だから今の八人の生活がタリスンには当たり前になっていた。
 とくに一番むかしからいるというファンダーラは、口は悪いけれど面倒見は良くて、ちゃんとこうして話もしてくれるし、みんなどこかで頼っていると思うのだけれど。
「ファンダーラ、いなくなっちゃうんだ……」
「だーから! いつまでもガキすんなって言ってんだろ!」
 ちょっぴりきつく言われてタリスンはびっくりして顔を上げた。
「あんまり泣いてばっかしてると、まーた兄貴に睨まれるぜ?」
「う……」
 タリスンはその通りだったので、あたふたと首をふって視線を彷徨わせた。
「おまえらってホント、似てないよな、性格は。似てんのは目ぇだけだ」
 みんな、そう言う。
「あの……それで、ファンダーラ、なに、してたのさ?」
 話題を逸らそうとして、本来の目的を思い出した。
「ああ、試験に、何をしようかな、と思ってな」
「……どーゆーこと?」
 わからなくって、タリスンがきょとんと訊ねる。
「ん? あ、知らねえか。試験って言ってもな、別に問題を出されるわけじゃねえ。自分から何かやってみせるのさ」
「……?」
 やっぱりわからなくって、タリスンは眉を寄せる。
「はは、おまえはいいんだよ。おまえの試験は剣技と決まってんだから知らなくっても。つまり俺たちは、自分にはこんなことができます、って試験官に見せるのさ。だから何をしようかな、てな。やっぱ俺は俺らしいカッコいいことしなきゃ駄目だろ?」
 そんなことを言ってファンダーラはウインクする。
 なんかよくわからなかったけれど、最後のところだけはファンダーラらしいと思って、タリスンは大きく頷いた。
「うん! そーだね!」
 ただわかっているのは、ファンダーラはどんな試験だってきっと合格して、そしてここからいなくなってしまうって、そういうことだ。
 ここにずっといてほしいってことは、ファンダーラに試験に落ちてほしいっていうことだから、それは違う、と思う。
 だってタリスンや神殿のみんなは、いつも自信満々のファンダーラが、大好きだったから。


 水の二の月の二日。
 それがファンダーラの生誕の日だ。
「おい、タリスン。起きられるか?」
 肩を揺すられて名を呼ばれる。
 それは聞き慣れた兄の声。
「まだ寝てるか? ファンダーラの試験の日だぞ」
 その単語にタリスンは眠りの泉から一気に浮かび上がった。
 ぱちっと目を開けると、自分と同じ緑色の瞳が覗き込んでいた。
「おまえは呼ばれてないから寝ててもいいけど。なんで起こさなかったって後で騒がれるのは嫌だからな、一応起こした。どうする?」
「起きる!」
 見れば兄は既に着がえを済ませている。
 というか……正装している。
「じゃ、急いで着替えろ。服はいつもの白いのでいい。上にマントを羽織るから」
 タリスンとは反対、といわれる静かな口調で兄は言って立ち上がる。
「用意が出来たら食堂に来るんだ」
「うん」
 そうして兄が家を出ようとする後ろで、半分寝たままのタリスンは、急いでベッドから降りようとして……見事にすっ転んだ。


 兄に言われたとおり、いつも通りの白の上下に着替えて神殿の食堂に行ったタリスンは、そこでファンダーラ、レイザラードに次いで三番目に年長のターナに呼び止められた。
「あらタリスン? どうしたの、その顔」
 ターナはレイザラードと同じ年で、最年長の女性候補生だ。
 まだ十五歳だが、ここでは姉というよりはまるで母のような存在だ。
 彼女も今日はいつもとは違う緑色のきれいな服を着ている。
「え? 顔?」
 言われた意味が解らずきょとんとしていると、ターナが手を伸ばしてタリスンの右頬に触れた。
 それで、タリスンも気付く。
「……痛い」
「でしょう? 打った? ぶつけたの? ――サーヴィ!」
 どうやら起き掛けにコケたので腫れるかどうにかしているらしい。
 ターナが部屋を見回して、別の少女の名を呼ぶ。
 すると、手伝いもせずにぼんやりと座っていた幼い少女がこちらを向いた。
「袋に氷をもらってきてちょうだい!」
 ターナの言葉に、青いショートカットの少女はずるっと椅子から降りた。
 目を擦りながら、それでもちゃんと奥の厨房の方へ向かっている。
「タリスンもサーヴィがいたところに行って座っていて。氷でそのほっぺた冷やしなさい」
「うん」
 素直にこくんと頷くと、サーヴィに負けない眠そうな顔で歩き出す。
 けれど。
「んん? なんだ、タリスン。その面は」
 別の声が横から降ってきた。
 タリスンがとろんと顔を上げると、そこには年長の少年が二人。
「おやおや。見事に腫れてますね」
「おめー、俺の晴れの日になにしてんだか」
 レイザラードとファンダーラだ。
 二人ともいつもと違う服を着ている。そういえば、いつもはタリスンと同じ洗いざらしの麻服を着ているサーヴィも、今日はきれいな水色のワンピースを着せられていた。
(……なんで、俺だけ普通の服なんだ?)
 確かマントを羽織るからいいって言われたけど。
 そりゃ、兄のような正装はまだ用意されていないけれど。
 むすっとしたタリスンに、ファンダーラが遠慮なく手を出してわしわしと頭を撫でられた。
「なんだぁ? 起き掛けにコケでもしたかぁ?」
 あまりにも大当たりだったのでタリスンは真っ赤になる。
「お? 当たり? んまあ、今日のところは起きれたってことで勘弁しとくか」
 勘弁って……どーゆーことだよ。
「なーにが勘弁よ。それよりファンダーラ、いいの、こんなところで油売ってて」
 タリスンが思ったのと同じことをターナが口にする。
「おおっと、良くない。んじゃ俺行くわ」
 そう言ってひらりと手を振りファンダーラは奥へと離れていく。
「それで、タリスンの頬については?」
「今サーヴィに……って、戻って来たわね」
「そのようですね。それではわたしも行きます」
 そしてレイザラードもまた別の方向へと離れていく。
 ターナはタリスンとサーヴィを引き連れて、部屋の隅の椅子に座らせ、呼ばれるまでここでまってなさいと言い残し、彼女もまた行ってしまった。
「……おはよ、タリスン。それ、どーしたの? 痛い?」
「ベッドから落ちた。じんじんする」
「うー、わかるかも。あたしもタンスで足打った」
「……大丈夫?」
「……結構痛い」
「そっか……」
 少年と少女はとろんとした顔で並んで座って食堂の中を眺めていた。
 八歳の子どもたちには、早過ぎる朝だったようだ。
 なにしろまだ、太陽すら眠っている。
「みんな……忙しそうだね」
「うん……」
 タリスンとサーヴィシャール、それから今日の主役のファンダーラを除く、あとの五人の候補生たちはなにやら走り回っている。
「ねえ、試験って何するのか、サーヴィは知ってる?」
 サーヴィシャールは、ファンダーラと同じ水の神官候補生だ。
 数年後にはサーヴィシャールも同じことを経験するはずだが、果たしてそれは何年後になることか。
「……水鏡に未来を映すって言ってたよ」
「へ?」
 ほっぺたに氷袋を当てたタリスンは、間抜けな声で隣の少女を振り返った。
「未来?」
「うん」
「未来が見えるの?」
「……うーん。そういうことみたい」
 タリスンが目をぱちくりさせる。
 未来が見えるなんて、すっごいんじゃないのか?
「それって、簡単? 難しい?」
「すっっごく難しい、って習ったよ」
「ふ、ふーん……」
 タリスンは神官候補生ではない。だから、同じ神殿で勉強しているとはいえ、神官のことはよく解らない。
 それでも、ファンダーラがなんでもやってのけるすごい人だってことは、知っている。
「ファンダーラ、それをやったら、ここからいなくなっちゃうのかな」
「……うん。そうなるだろうって、ターナが言ってた」
 やっぱりそうなのか。
 そのことを、兄やレイザラードに訊ねてみようかと思ったけれど、やっぱりいなくなるんだろうってことをわざわざ確認するのがなんとなく嫌で、訊けなかったのだ。
 でもターナもそう言うなら、そうなんだろう。
「ファンダーラがいなくなるの、嫌だな……」
 年長の少年たちには言えなかったその言葉を、タリスンはぽつんと漏らす。
「……うん」
 サーヴィシャールもこくん、と頷いた。