聖堂の中に再び入るように言われたのは、午過ぎてからだった。
 ターナが呼びに来てくれた。
「みんな、聖堂に行くわよ」
「……なにがあるの?」
「先読みよ」
 といわれてもよくわからない。
 今朝、ファンダーラがやってみせたことは、きれいだとは思うけれど、星が見えない子どもたちにはそれ以上は解らないから、と退席したのに。
 また呼ばれるのはどうしてだろう。
 年少の子どもたちの着替えをさせながら、ターナは説明をしてやる。
「朝見たのは星を映す『星降り』というもの。そして今まではその星を読む『星読み』をやっていたの。そしてこれから、『先読み』をするのよ。……つまり」
 やっぱり首をかしげているタリスンにターナは微笑んだ。
「星から未来を読み解いて、言葉にするのが、先読み、というものよ。といっても、やっぱり解らないわよね。一度、見てみると少しは解るわ。だから今日はみんな聖堂に入れるのよ」
 はい、出来た、と小さな剣士姿のタリスンの背中を押す。
 朝と同じように聖水で手と口を清めて聖堂に入ると、どうやらファンダーラの『先読み』というのが始まっていた。
「あら、遅れちゃった」
「ええ」
 ターナとレイザラードが小さく交わす声が聞こえる。
 レイザラードは……ずっとそうして見ていたのだろう、朝と同じ場所に立っていた。
 じっと見上げていたタリスンに気づいて、黒髪の風の神官候補生はいつもと変わらない穏やかな笑みをタリスンに返してくれた。
 そのレイザラードと、ターナが視線を戻したのでタリスンもそちらを向く。
 聖堂の真ん中で大きな水盆に向き合っているファンダーラのほうに。
 少しうつむいていたファンダーラの顔が上がった。
 と思ったら、誰も俺には敵わねーよ、といつも冗談か本気か解らないけれどファンダーラ自身が言っているすごく綺麗な声が響いた。
「一つの大きな星のもとに、幾つかの凶星が流れ落ち、集い、輪となるだろう。
 そして、闇を生むだろう」
 その声が聖堂の高い天井に響く。
「対抗する星の光は、集えども輪にはなれず。
 凶星を囲む数多の星は、やがて影を落とすだろう。
 そして人はそれに気づかぬだろう。
 世界は闇に染まるだろう」
 タリスンたちはびっくりした。先読みとは星が伝える未来のことだという。
 その未来が『闇に染まるだろう』?
 慌ててレイザラードやターナを見たが、二人の真剣なまなざしは、けれどあまり驚いた様子ではない。
 むしろ、試験管として臨席している、カンターラの水の神官たちのほうが驚いた顔をしている。
「否」
 ファンダーラの声が、凛と響いた。
「南方に、一条の光、流れる。
 其は小さき星。
 数は六つ、七つ、八つ――集いて輪とならん。
 強き光は小さくとも消えず。
 其は星の輪を回す」
 先読みは完成した。
 その場の雰囲気で、タリスンにもわかった。
 けれど誰も動かない。誰も、何も、言わない。
 そして最初に動いたのは、二人の水の神官たちだった。
 たがいに顔を見合わせると、なにやら意味ありげに視線を交わすが、すぐに頷き合って静かな表情に戻った。
 二人がそれぞれの水の錫杖を両手で握った。そしてそれぞれ別なふうに振るう。
 が、最後には同じように、それをファンダーラに掲げた。
「汝、世界を構成する水に支えられし者よ」
「星が流れる行く先に、汝が道があらんことを」
 そして二つの錫杖が交差される。
「汝を我らが仲間、準神官としてカンターラの水神殿へと迎えよう」
 二人の神官が告げた。
 ファンダーラは杖を引いて、深々と頭を下げた。


 準神官と認められた証が授与される儀式は、タリスンたちだけでなく、レイザラードでも同席できないもので、子どもたちは七人揃って聖堂を出た。
「儀式が終わるまで勉強会にしましょうか」
 いつもと変わらない口調でレイが言った。
「ニールメイアさまはいらっしゃいませんが、わたしがわかる範囲でお話しましょう。先読みの、星降りと星読みについて。今日ほど興味を持って取り組める日はないでしょうからね」
 ファンダーラにかわって最年長となる風の神官候補生の言葉に、他の候補生の少女だちはそれぞれ神妙に頷いた。
 神官候補生ではない兄弟は、レイザラードと四人の少女たちとは別の方に歩き出す。
「おまえはどうしたい? 俺と練習するか、それとも一人がいいか」
「うーん、一人がいい、かな?」
 兄 の問いかけにタリスンはあまり迷わず答えた。
 今から兄と剣を交える型の練習をしても、とても集中できそうになくて、いつも以上に叱られそうなのが目に見えていたからだ。
 それなら一人ならなおさら何も出来ないだろうけれど、兄はそうか、と言ってタリスンに背を向けた。
 足の向く方向で弓の練習に行くんだな、と予想がつく。
 兄は剣士ではなく弓士を目指している。
 自分はどうしよう、と目的もなくざくざく歩いていると、表の庭に出たところで彼を見つけた。
 いや、見つけられたのだが。
「……君、候補生だね?」
 兄とも、レイザラードともファンダーラとも違う感じの男の呼びかけに、タリスンは声の主の顔を見るために大きく顔を上げる。
 そこには水の神官と一緒に来た護官の一人がいて、タリスンを見ていた。
「え? あ、はい!」
 タリスンは慌てて頷く。
 この人は、カンターラの神官剣士だ……!
「すまないが、水が欲しいのだが、食堂はどちらかな」
 彼はちょっぴり困った顔をして、そう訊ねてきた。
 タリスンは……少し考えてから、訊ね返した。
「水がほしいのは、馬ですか、剣士さまですか?」
「え?」
 すると剣士は、なんというか、きょとんとした。
 それにタリスンのほうが焦った。
 ばかなことを言っただろうか。失敗したかな――?
 けれどすぐに剣士はにっこり笑った。
「そうか、君は護官候補生なんだね」
 そうだけど。
 どうしてそういう返事が返ってくるのか解らなくて、今度はタリスンのほうがきょとんとした。
「不思議そうだね。神官はね、あまり馬のことは気にしないんだ。……悪い意味じゃないよ、馬の世話をするのは僕ら護官で、彼らは気にしなくていいものなんだから。うん、水が欲しいのは僕のほう」
 子ども相手に丁寧に剣士は答えた。
 瞬時にタリスンは、自分はこんな大人になりたいっと心に強く思った。
「あ、はい、すいません。えっと……食堂にご案内すれば、いいんですよね?」
 そういえばこの人はさっきちゃんと食堂はどこかって訊いてきたなあ、とタリスンは思い出す。
 やっぱり自分が失敗したようだ。
 恥ずかしくなってすたすたと食堂に向かって歩き出す。
 その後ろから大人の足音がついてくる。
「ナタリーおばさーん」
 食堂に入るといつものように声を上げた。
 すると奥から住み込みで食事の面倒を見てくれている婦人が顔を出した。
「なんだい、タリスン」
 が、彼女はすぐに可愛がっている少年の後ろに、客人の姿を見つける。
「おやまあ、これは護官さま」
 ぱたぱたと飛び出してくるナタリーに、剣士は年長者に対する礼をした。
「お仕事の邪魔をしたらすみません。のどが渇いたもので、何かいただけますか」
「あらまあ、気が利かなくてすいませんねえ。どうぞどうぞおかけになって。ええ、何に致しましょうかねえ?」
 ナタリーおばさんはすぐに火にやかんをかけながらまた顔をだす。
「タリスン、案内してくれたんだね、ご苦労さん。何かいるかい?」
 すぐにくるくる動き出したおばさんは、ぽやっと剣士を眺めていたタリスンにも声をかけてくれる。
「え? 俺? ううんっと……」
 タリスンは、おもいっきり困った。
 いる、と言えば剣士の前に座らなければならない。
 いらないと言えば、用済みの自分は出て行かなければならないだろう。
 そのときタリスンがどんな顔をしていたのか、剣士がにこっと笑いかけてきた。
「君もよければご一緒しよう。僕もお茶なら一人より話し相手がいるほうが楽しいだろうからね」
 そんな風にいわれて。
 タリスンは思わずこくんと頷いていた。


「君は炎の護官……剣士候補生か」
 湯気の上がるカップを口元に運びながら、その剣士はタリスンのことを言い当てた。
「えっと。はい、そうです」
 タリスンもホットミルクをずずっとすするように一口飲んで、頷いた。
「君は、どうして剣士になりたいの?」
「へ?」
 憧れの剣士さまに、そんなことを言われて、タリスンはぽかんとした。
「ええっとぉ」
 かっこいいから、ではだめだろうか?
 でも、ファンダーラとかレイザラードとかのように、タリスンは目的を持ってここでの見習い生活を送っているとは言いがたかった。
 それでは自分と同じようにここにやってきた兄は、目標があるのだろうか?
 むううっと唸ってしまったタリスンを、そのタリスンとともすれば似ている容姿の炎の剣士は、あはは、と笑った。
「ごめんごめん、難しく考えなくていいよ。かっこいいから、とか、強くなりたいから、とか。初めはそんなもんだろう?」
 まさにその通りだったので、タリスンは真面目腐った顔でこっくんと頷いた。
「それでもいい。強くなるためには練習するしかない。剣士になるには、それしかないからな」
「あの……剣士さまは」
「うん?」
 タリスンはかなり迷ったが、それでも訊いてみたくてちょっと身を乗り出した。
「どうして剣士になったんですか?」
「僕はね……」
 黒い髪がつんつんと立っている剣士は、炎の属性と解る赤みがかった瞳をタリスンに向けた。
「僕も、かっこいいと思ったんだ、初めはね。でも、剣士っていうのは力のあるものだろう? だったら守ることができるんだ、と気づいてね。だから、リムーアを守るって約束したんだ。おっと、リムーアというのは僕の相棒の水の神官さ」
「……あの、青い巻き毛の人? 優しそうな人」
「うん、そう」
 炎の剣士がついている水の神官は、タリスンは初め女の人かと思ったものだ。
 なんとなく雰囲気が、ターナとサーヴィシャールをたしたような感じがしたから。
「……あの」
「なんだい?」
 タリスンが興味本位で口を継ぐのに、けれど剣士はそんな少年を見守るように見返してくれる。
「水の神官に、炎の剣士が、つけるんですね……?」
 実はすごく気になっていたのだ。
 普通、水の神官には水の護官がつく。
 炎の剣士なら炎の神殿や炎の神官につくものだ。
 けれどこの人は。
「うん、普通はそうじゃないね。でも僕は知らなかったんだ」
 何をだろう、とタリスンは剣士の言葉を待つ。
「普通は同じ属性の者が護官になるんだってことをね。でも、僕はどうしても彼の護官になりたかったんだ」
「その……水の神官さま、の?」
「そう。小さいときに約束したんだ。大きくなったら彼は神官になるって。だったら僕は護官になって彼を守るって。同じ神殿で育った二人っきりの仲間なんだよ」
「え?」
 タリスンはぱちくり、と剣士を見つめた。
「同じ、神殿で育った……?」
「そう。僕も星神殿で育ったからね」
 つまりそれは今の自分と同じ、ということ。
 そのとき一緒だった神官候補生の仲間の、護官になった、ということ。
 普通ではあまり例のない、属性を超えて。
「なれるんだ……」
 習ったこととは違う。でも、目の前に実例がいるのだ。
「うん。ただ、努力がいるけどね。それに運も」
「運?」
「そう。なぜなら同時に神官と神官剣士にならなければならないからね」
「ど、同時に?」
 初めて聞く話にタリスンは夢中になった。
「神官は最初の任務に入るときに護官と移動するんだけれど、だいたいそのときからずっと一緒にいるものだからね」
 ……よく、わからないけど。
「えっと、じゃあ、俺じゃあファンダーラの護官にはなれないんだ?」
「今回の彼だね。そうだねえ。ちょっと難しいかな」
「じゃあ、サーヴィだったら?」
 言ってから、慌ててタリスンは口を噤んだ。
 もちろんサーヴィシャールのことなんて知らない剣士は、なんだい、とタリスンの顔を見返す。
 なんでもない、と言おうとしたところへ。
「まあまあ、素敵ねえ。サーヴィの護官がタリスンだったら、お似合いじゃないの」
 ナタリーおばさんがからっとそう言った。
「お、おばさんっ」
「それにそちらの護官さまはタリスンにちょっと似てるけど、その神官さまはサーヴィに似た青い髪と青い瞳の人だったわねえ。まるであんたたちの未来像のようだねえ」
「おばさんっ! その神官さまは男の人だよっ!」
「なあに、問題ないよ。水の神官さまってのは綺麗な人が多いそうだよ。ファンダーラだって綺麗だろう?」
 だからそういうことを言っているんじゃないって!
 けど、自分が何に慌てているのか、タリスンもだんだんよくわからなくなってきた。
「その子は水の神官候補生なの?」
「ええ、そうですよ」
 剣士はタリスンに訊ねたのに、真っ赤になっているタリスンに代わってナタリーおばさんが答えた。
「タリスンと同じ歳の女の子なんです」
「そうか、じゃあ君も頑張らないとね」
 結局はそこへと辿りつくのだ。
「……無理だよ。サーヴィのほうが先に神官になっちゃうよ」
 残り少なくなったミルクを見つめてタリスンはぽつんとこぼした。
「サーヴィはいっつも俺より先に行くんだ」
 頭のいいサーヴィ。
 お行儀のいいサーヴィ。
 それに比べてタリスンは叱られてばっかりだ。
「だから頑張るんじゃないか」
 剣士さまはそういうけれど。
 タリスンだって、べつに頑張ってないわけじゃなくて。
 ただ……でも……。
「頑張ればなれるかもしれない。でも、頑張らなかったら多分なれないよ」
「……え?」
 タリスンは顔を上げた。
 いま、何を言われたのだろうか。
「僕は頑張ればなれる、なんて無責任なことは言わないよ。でも、こうしてリムーアの護官になった僕が、君に言えることはね。頑張ればなれるかもしれない、ということ」
 それは希望であって、あまり励ましではないように聞こえるのだけれど。
「そして頑張らなかったらなれなかっただろうな、という僕自身の経験だ」
 ややぽかんとしてタリスンは剣士を見返した。
 赤いマントの神官剣士は、タリスンの目の前で立ち上がる。
「あとは君次第だよ」
 そして剣士はナタリーおばさんにごちそうさまと声をかけた。
「それじゃあ、幸運を。昔の自分に会ったみたいで楽しかったよ」
 にこりと笑って剣士はタリスンの前から立ち去った。
「やあ、アド。こんなところにいたのか」
「ああ。こちらでお茶をご馳走になっていたんだ」
 食堂の外から声が聞こえた。
 もう一つの声は多分もう一人の水の神官剣士だろう。
 ――でも、頑張らなかったら多分なれないよ。
「……あうぅ」
 憧れの剣士さまの言葉を思い出して、タリスンは唸った。
 そうだ。
 頑張らないと、サーヴィの護官に、というか、護官そのものにだってなれない。
 タリスンだって、あの真紅のマントが着たいのに。
「いいねえ。サーヴィが水の神官さまになって、タリスンがその神官剣士さまだったら絵になるねえ」
「おばさん、もういいよ」
 どこがどう絵になるのかタリスンにはよくわからなかったが、ナタリーおばさんはその未来像がいたく気に入ったようだ。
 まったく、人の気も知らないで。
「ところでタリスン、あんたちゃんと護官さまになれるんだろうねえ?」
 おばさんの一言に。
 ミルクを飲み干そうとしていたタリスンは……思いっきりむせてしまった。