タリスンたち年少の四人が呼ばれて、そこへ行くと、ファンダーラを含む年長の四人が揃っていた。
 ターナが、赤毛の少女の肩を抱いているのは、彼女が泣いているかららしかった。
 タリスンはそれを見て、もう一度決意した。
(……泣かない!)
 今日、ファンダーラは準神官になるのだ。
 それでここを出て行くんだから、それはすごいことだ。
(――――だめだめだめ!)
 また泣きそうになる自分に、ぶんぶんと首を振った。


 タリスンたちが現れると、ファンダーラは一人ですたすたと幼い後輩たちのほうへ近づいてきた。
 思わず四人でファンダーラを取り囲むようになってしまう。
「ファンダーラ、出ていっちゃうの?」
 サーヴィシャールが半べそ声でファンダーラを見上げる。
 ファンダーラは、そのきれいな、でも強い眼差しの金色の瞳で、四人の顔を順番に見つめた。
「ああ、今日でお別れだ」
 その返事に女の子二人はうつむいて涙を抑える。
 タリスンは何とか泣かなかったけれど、視線を落とすと、隣の兄が手をぎゅっと握り締めているのを見つけた。
 それは、自分の手と同じだった。
 ぐいっと顔を上げてもう一度その顔を見上げる。
 明日からこの顔も見られなくなるけれど、でも自分は絶対忘れないでいよう。
 水色のやわらかい波打つ髪も、タリスンをまっすぐ見つめてくれる金の瞳も。
 そしてきれいな外見を裏切る口の悪さも。
 絶対。自分は絶対、忘れない。
「ファンダーラ!」
 タリスンは何百回も呼んできたその名を呼んだ。
「ん?」
 いつもと変わらぬ調子でファンダーラはタリスンを見返してくる。
 けれど今日のファンダーラは水色のマントの正装に、新たに神官に与えられる額飾りをつけている。
 各個人によって形がちがうサークレットの、ファンダーラのそれは三日月型……いや、馬蹄形だ。
「うんとね」
 タリスンは額の金のサーレクットを少し見つめて、それから瞳を合わせた。
「おめでとう! やっぱりファンダーラはすごいね!」
 そういって、笑った。
 うまく、笑えたはずだ。
「おう」
 ファンダーラはにっと笑って、タリスンのつんつんした髪をくしゃくしゃと乱暴にかき混ぜた。
「本当、凄かった。俺でも感動した」
「おお、おりゃすげーな!」
 多分本気で言ったのであろう兄の台詞に思わずファンダーラと一緒に笑ってしまう。
 みんなが一度は言うのだ。タリスンと兄とは正反対だと。
「素敵な星降りを見せてくれてありがとう」
「うん! すごかった! すごいきれいだった!」
 女の子たちが言うのにも、ファンダーラはいつもと同じで、全部に耳を傾けて聞いてくれる。
「あったりまえだ。俺らしい格好いい星降りだったろう? しかもこの美貌と美声。カンターラに行ったらすぐに神官になるぜ?」
 自信たっぷりに言ってウインクする。これも……いつものファンダーラだ。
「おやおや、すこしは待ってもらえませんかね。そんなにすぐに神官になられたら追いつけませんよ」
「まぁったく、調子良すぎよファンダーラ。吟遊詩人じゃあるまいし、美貌と美声でなれるもんですか」
 それでも美貌と美声は否定しないターナや、レイザラードたちが近寄ってくるのに、まあまあとファンダーラは軽く手を振る。
 そして年少組みの頭に順番に手を乗せた。
 そうしながら一人ずつの顔を覗き込む。
「誰もこんなきれいな俺の顔は忘れねぇだろうけど、俺もお前たちの顔を忘れたくないからな」
 冗談のようにファンダーラは言って、ターナがやれやれと呆れていたけれど、タリスンは一生懸命その顔を見返した。
「うん、忘れない。絶対忘れないよ!」
 目に焼き付けるように、見つめた。
 ファンダーラはそれに、にやり、と返してくれた。


 西の空から色が変わってきて、神殿は夕刻を迎えようとしていた。
 子どもたちは一同に顔をつき合わせられる食堂に集まって、ナタリーおばさんのいれてくれたそれぞれの好物を手にしていた。
 喋るのはファンダーラが中心で、ときどきターナがまぜっかえして、笑ったり、なんで、とかすげー、とか言うのはもっぱらタリスンの分担だ。
 今日が最後だからと言って、普段はあんまり子どもたちの輪には加わらない住込みで面倒を見てくれているバァグおじさんも隅っこの椅子に座って眺めている。
 ただ、ニールメイアさまたち神官さまと護官さまは、ずっと聖堂に篭ったまま出てこられなかった。
 でもそんな、これまでは当たり前だった時間が今日で終わりだなんて、なんだか信じられなくて、いつもと変わらず楽しいからこれからもずっと続くような気がして、そして、明日からどうなってしまうのか、タリスンにはわからなかった。
 ニールメイアさまが呼びにこられたとき、だから子どもたちは、一様にどこか恐れていたものがやってきたというほんの少し引きつらせた笑顔になった。
 たぶんけろっとしていたのは、ファンダーラ一人だったのではないのか。
 ファンダーラは旅立ちを告げられても、すでの仲間との別れはすませたつもりなのか、軽やかに返事をして席を立った。
 子どもたちは急いであとに続く。
 小走りについていっていたタリスンだが、後ろからひょいとターナにつかまれた。
 なんだろうと思えば剣士のマントを羽織らされる。
 見れば兄もいそいそと肩の留め具をつけていた。
 朝はわくわくしたそれも、今はなんだか……なんて言うんだろう。
 胸の奥がちょっぴり苦しくなる。
 年長の赤毛の少女はやっぱり泣き出しそうな顔で、兄と同じ年の黒髪の少女が手をつないでいる。
 今だけはどっちがお姉さん役かわかったもんじゃない。
 タリスンのマントを止め終わると、ターナはサーヴィシャールの服と髪を直している。
 そうして子どもたちが神殿前の広場に出て行くと、カンターラから来ていた二人の水の神官と二人の護官が、来たとき同様、馬に乗っていた。
 と、そのとき別の方向から聞きなれない音がしてタリスンは振り返る。
 いつの間にそちらに行っていたのか、鶏小屋がある方向からバァグおじさんが現れた。
 その手に、馬の手綱を引いて。
「ほお?」
 ファンダーラが軽く驚いて見せた。
 バァグおじさんはまっすぐにファンダーラのほうに向かっていく。
「へえ? これ、俺の?」
 無口なおじさんは黙ったまま頷いてその手綱をファンダーラに手渡す。
「見立ててくれたの、おじさん? 俺に似合いのきれいなコだな」
 にやりと笑ってみせるファンダーラに、おじさんもにやっと笑ってかえした。
 ファンダーラも今はじめて見たらしい彼に与えられる馬は……すごくきれいだった。
 真っ白で、まるで翼が生えて飛んでいきそうな感じがした。
 ファンダーラが言うとおり、ファンダーラが連れているのにとっても似合っていた。
「まだ若いな。ありがとうおじさん、長く付き合うよ」
 たてがみを撫でてからファンダーラはお礼を言うと、まるでいつもそうしていたかのように、慣れた感じで身軽に馬にまたがった。
 その馬に触れるのも乗るのも初めてなのに、もうずっと自分のものみたいに扱えてしまう。
 それもやっぱり、ファンダーラだ。
 白い馬に乗ったファンダーラは、ほかの神官さまや護官さまのもとへと馬を進める。
 カンターラの神官さまにくらべると貫禄はさすがに足りないものの、むしろ王子様みたいなファンダーラを、見送るために子どもたちは誰からともなく一歩二歩と前に出る。
「我らの世界に安泰を」
 水の神官が挨拶をする。
「星の導きのあらんことを」
 ニールメイアさまが挨拶を返す。
 すると彼らは馬の首をめぐらせて、東の森に向かって歩き出した。
「ご健勝お祈りします、ニールさま……ニールメイアさま」
 ファンダーラも難しい言葉で挨拶をする。
 そして。
 ついに背中を向けてしまった。
 水色のきれいないろのマントの上を、それよりずっときれいな色のファンダーラの髪がふわんと揺れる。
 白い馬の背で軽くゆれる背中を見て。
 見送るつもりだったのに。
「……あ」
 タリスンは思わず一歩踏み出した。
「い、いやだ……」
 誰かの背中を追い越して、タリスンは前にふらりと歩み出る。
 そしたら、なんか変だ。急にファンダーラの背中がゆがみはじめた。
「おい、タリスン」
 兄貴の声が後ろでしたけど、タリスンはそのときすぐにはよくわからなかった。
 ただ、ぼやけたファンダーラの姿が、遠ざからないで振り向いたのがわかった。
 そしてなんだか目をまん丸にしている。
 なんだろう。
 なにかあったのかな?
 タリスンがよくわからずに目をしぱしぱさせていると、ファンダーラが時々見せる困ったような顔で馬を引っ返してきた。
 なんだろう、忘れ物かな。
 そのときタリスンの袖に触れてくるものがあった。
 振り向かなくってもわかる。それはサーヴィシャールの手だ。
 タリスンを追いかけて来たのだ。
「おいおい。やっぱだめかぁ?」
 タリスンとサーヴィシャールの前まで帰ってきたファンダーラが、馬上から片手を伸ばしてきた。
「ファン……」
 タリスンはその名前を呼ぼうとして、つっかえた。
 うまく、言えなかった。
 だってそのとき初めて気づいたのだから。
 自分が、泣いているということに。
 ファンダーラの手がタリスンのつんつん頭をかき混ぜる。
「おい、タリスン!」
「ファンダー……ラが、いなくなったら、お、おれ……いやだよぅ」
 ぼろぼろと涙がこぼれているのに気がついたけれど、それと同じくらい無意識にその言葉がこぼれていった。
 タリスンが言うと、袖を掴んでいたサーヴィシャールの手がぎゅうっと握り締められた。
 えっぐ、とサーヴィの泣き声がする。
「ああもう! お前が先に泣くからサーヴィが一緒に泣いちまっただろーが」
 ファンダーラは今度はサーヴィシャールに手を伸ばし、俯いた小さな少女のおでこをぺんぺんと叩く。
 慌てて隣を見ると、サーヴィシャールが拭っても拭っても溢れてくる涙と格闘していた。
「サーヴィ……顔、ぐちゃぐちゃだよ」
「……タリスンだって!」
「おまえらなあ」
 そんな二人にファンダーラはちょっぴり呆れ顔だ。
「ほら、もう泣くな! それじゃ俺が行けねーだろうが」
 するとサーヴィシャールがファンダーラを見上げた。
「行かないでぇ」
「ばーか。そうはいくか」
 そりゃ、わかってはいるけれど。思わず言ってしまったサーヴィシャールの気持ちも、タリスンはわかる。
「いいか、お前ら」
 とりあえず涙の止まった二人に、ファンダーラは馬の上で姿勢を立て直す。
 ほかの子どもたちもタリスンたちのすぐ後ろまで集まってきた。
「絶対神官になれ。タリスンは絶対剣士になれ。そうすれば会える。また一緒にいられる。いや、そうするんだ」
 ファンダーラは自信たっぷりの顔で命令するみたいに言った。
 タリスンは、その言葉の意味を理解するなんてわからなかったし、後ろでレイザラードとターナが顔を見合わせているところを見てもなかったし、まあ見ててもわからなかったけれど、たった一つだけ、わかったことがある。
(タリスンは絶対剣士になれ)
 ファンダーラは手綱を操って馬の向きを変えた。
 馬の乗り方なんて、ファンダーラはいつ習ったんだろう、とタリスンはそんなことを思った。
「いいか、絶対だぞ。返事は?」
「――あ、う、うん!」
 慌ててタリスンとサーヴィシャールが頷くと、ファンダーラは一瞬仲間たちみんなに視線を向けてから、ぱちんとウインクした。
 そして軽やかに走り去る。
 あっというまに神官さまたちと合流して、もうそれで、彼らは行ってしまった。
 来たときとは対照的な、夜が始まる奥のほうへと消えていく。
「い、行っちゃった……」
 サーヴィシャールが力が抜けたようにつぶやいて、タリスンも我に返った。
 それから握ったままのサーヴィの手を見て、顔を見て。
「サーヴィ、泣いてるの?」
「泣いてるのはタリスンでしょう?」
「俺、泣かないって決めたもん」
「あたしだって!」
 喚き始めた二人を囲んで年長の子どもたちがため息をついた。
「泣くなとは言わないけどねえ」
「まあ、今日のところは仕方がありませんよ」
 それはいつものターナとレイザラードで。
 いつもと……なにもかわらない関係。
 ずっと泣きそうな顔をしていた赤毛の少女は、ファンダーラが消えていった方をじっと見ていたけれど、今このときには泣いてなどいなかった。
 いつもタリスンに泣くな、という兄も、今はなにも言わなかった。
 表情の変化の少ない、兄と同じ年の黒髪の少女は、口元をきゅっと引き締めたまま、やっぱり何も言わなかった。
「別れは悲しいものですが、あなた方の道が分かつわけではありません」
 その声に。
 子どもたちはいっせいに振り返った。
 それは、この星神殿の神官、ニールメイアさまの声。
「星は別れ、けれど引き合い、集い、いづれ何かを変えるでしょう」
 ニールメイアさまは子どもたちのほうなど見ていない。
 静かにそれだけ言うと、神殿に引き返していく。
 ニールメイアさまが言ったことの意味なんて、タリスンにはちっともわからなかったけど。
「さあ、わたしたちも行きましょう」
「夕餉の前に勉強会よ」
「えー、そうなの?」
 子どもたちがぞろぞろと歩き出した。
 タリスンはそれについていきながら、そっと振り返って東の森に視線を送った。
 そこにはもう誰もいない。


 そして、ファンダーラのいない生活は始まるのだ。