辺りは一面水色。ここはどこだろう。
今開けた扉をくぐってもいないはずなのに、硝子はこちら側にきてしまったようだ。
「まあ、びっくりした」
突然後ろから声をかけられて、硝子のほうがびっくりした。
「まあまあ硝子さん、いつからこちらにいらしたの? 私、硝子さんはキキルさんのところにいらっしゃるって聞きましたのに」
振り向くと、そこには手に平くらいの白い天使がきらきらしながら浮かんでいた。
「そう、あたし、さっきまでキキルといたんだけど、えっと、ルーシーが大切なものを失くしたからそれを探して欲しい、て言われたのよ。それでさがしてたら青いドアがあって、それで、今度はあなたがいて……」
「まあ、そうでしたの」
硝子のまとまっていない説明に、天使は納得したようだ。
「ところで硝子さん、ルーシーさんって、どなたです?」
「え!? ルーシーって風見鶏のことじゃなかったの?」
硝子が驚いた声を上げると、天使は困ったような顔をした。
「確かに風見鶏は大切なものを失くして元気がないんですけど。でも……私が知っている風見鶏の名前はウィルウィルですわよ」
「ウィルウィル……」
これまた変な名前だなあと思いながら、硝子は次の質問を思いついた。
「ところであなたの名前は?」
すると天使は、目をぱちくり、とすると、さもおかしげに笑い出した。
「あら硝子さん、私の名前を忘れたんですのね? リーリーですわよ。ほら、思い出したでしょう?」
天使のリーリーはそういってまた笑ったが、硝子はもちろん、リーリーなんて名前ははじめて聞いた。
「それでリーリーの言うウィルウィルと、キキルの言うルーシーって、同じ風見鶏なのかしら」
「さあ。同じかもしれませんわね。だってここには風見鶏は一羽しかいませんもの」
それならどうして名前がちがうのだろう?
「ウィルウィルも、大切なものを失くして、元気がなくて、だから風が吹かないの?」
「ええ、そうですわよ」
白い天使のリーリーは大きく頷いた。
「それじゃあウィルウィルの失くしたものって何?」
「それが、わからないんですの」
わからない? 硝子小さく溜め息をついた。
「私も考えてはみたんですけど。ウィルウィルは何を失くしたんでしょうか」
リーリーも溜め息をついた。
「さっきね、キキルに聞いたんだけど、風見鶏は人間が好きなんですって?」
「ええ、そうです。よく家の中を覗き込んで、突風を起こしたりしてますでしょ?」
硝子にはちょっと想像できなかったが、さておき、ポケットから指輪とコインをとりだして。
「風見鶏はこういうの、好きそう?」
するとリーリーは小首を傾げて考えた。
「さあ、どうでしょう。ウィルウィルは人間がお洒落をしていると興味深げに眺めていることはありましたけど……。そういう光物を集めているのは、キキルさんじゃないかしら?」
そういえば、と硝子は考えた。これはさっきまでいたピンク色の世界で見つけたものだ。あのそこでは、白猫のキキルにしか会わなかったけれど、キキル以外に誰かいたのだろうか。
「ねえリーリー、あなたキキルのところへ行ける?」
突然の質問に、リーリーはまた困ったような顔をした。
「行けますわよ。行けますけど……むずかしいんですわ」
「むずかしい?」
「そうですの。キキルさんのところに行こうと思ったら、赤い扉を探さなくちゃいけません」
「それはどこにあるの?」
「わかりませんわ」
リーリーは首を横に振った。
「それじゃあ、あなたはウィルウィルのところにも行けないのね?」
「いいえ、ウィルウィルのところには、すぐに行けますわ。いつもあちらから風が吹いてくるので覚えてますもの。あちらに白い扉があるんですわ」
白い天使はある方向を指差した。
「今から行って、すぐにウィルウィルに会える?」
硝子がたずねると、天使は再び首を振った。
「ウィルウィルは今、失くしたものを探していますの。すぐには会えませんわ。でも硝子さん、ウィルウィルになにかご用ですの?」
「ウィルウィルって、あたしの家の風見鶏でしょ? だったらそこへ行けば家に帰れるのかなあと思って」
するとリーリーが今度は首を縦に振った。
「ええ、そうですわね。硝子さんの家にいくにはウィルウィルのところを通らないと行けませんわ。ですから私たちも、ウィルウィルが何を失くしたのか考えているんですの」
どうして? と思わず硝子はききかけたが、この世界の説明を聞いているときりがないように思われたので、あわてて口を噤んだ。
「それでは硝子さん、私は考えますので、これで失礼しますわ。ごきげんよう」
白い天使はきらきら光りながら飛んでいった。
こんなところに置いていかれては大変と、硝子がリーリーの後を追おうとすると、目の前にまた、青い扉が現れた。
扉を開けると、扉は消えた。
そこはさっきまでと同様の、一面水色の世界だった。
何かふわふわと動くものが見えた。硝子が走っていくと、見覚えのあるショールがあった。
「あら、これもお母さんの古いショールじゃない」
硝子はショールを拾い上げた。人間がお洒落するのに興味があるなら、こういうものを集めるかもしれない。
硝子が、他には何かないか辺りを見回してみると、また見覚えのあるものを見つけた。
「これは、あたしのベレー帽じゃない」
それは硝子には小さくなった、子ども用のものだった。
どちらもぼろぼろだったので、二つをまとめて左のポケットに詰め込んだ。
それから? 硝子が見回すと、いつのまにか近くに黒い扉が現れていた。
リーリーは風見鶏のところへいくには白い扉だと言っていたので、ではこの黒い扉はどこに行くんだろう、と思いながら、硝子はドアノブを引っぱった。
辺りは一面真っ暗。ここはどこだろう。
しばらくすると目がなれてきて、少しは辺りがうかがえるようになった。
正確に言うとその世界は真っ黒ではなく真っ暗だった。
夕立のときよりずっとずっと暗かったが、月も星もない夜よりは明るかった。
向こうのほうもずっと暗かったが、それより向こうから、何か白いものがふわふわと近づいてきているのが見えた。
硝子ははじめ、それは白い天使のリーリーかと思った。
でも近づくにつれてリーリーよりは小さく蝶のような形をしているのが見えてきた。もっと近づいてくると、白い蝶よりも上に二つの目があることに気がついた。
「誰かお客はんかと思えば、硝子ちゃんやないか」
飛んできた何かが声を掛けてきたので、硝子は驚いて飛び上がった。
「すまんけど、ここには止まり木があらへんから、硝子ちゃんの肩に止まらしてえな」
ばさばさと羽の音が左耳の近くでした。どうやら左肩に止まったらしい。
近くまでくると、やっと硝子はその正体が分かった。
白い蝶ネクタイをつけた黒いカラスだ。よく見れば嘴も光っているようにも反射しているようにも見えたが、たいした特徴とは思わなかった。
「はて、硝子ちゃん、ポケットの中に何入れてはるン?」
カラスは膨らんだ左ポケット見つめて首を傾げた。
「これは、さっきリーリーのところで、ウィルウィルが失くしたものじゃないかと思って拾ってきたものなんだけど……」
今にも突付かれそうだったので、硝子が慌てて答えるとカラスは納得したように頷いた。
「なるほど、硝子ちゃんはリーリーはんのとこから来ぃはったんやな。リーリーはんは今、ミックはんのところへ持って行くモンを考えてはるから、相手してくれへんかったやろ?」
「え? そんな用事もあったの?」
「リーリーはん、そう言ってへんかった?」
硝子はついさっきのことを思い出そうと、頭の中をかき混ぜた。
「えっとね、別れるときは、風見鶏のウィルウィルが失くしたものを考える、と言ってたわ」
「風見鶏のウィルウィル? 誰やねん、それ」
「えっと……」
答えかけて硝子はふと気付いた。そしてたずねてみることにした。
「カラスさん、大切なものを失くして困ってる風見鶏って知ってる?」
「いややな硝子ちゃん、カラスさんや言わんと、パグゆうて名前でよんでぇな」
カラスのパグは質問には答えず照れている。硝子はパグって犬の名前みたいだなあ、と思った。
「ミックはんやろ? 風見鶏のミックはん。まだ風吹いてへんし、失くしたもんは見つかってないんやろな……」
硝子の左肩に乗っているカラスのパグは、思い出したように答える。
「ミック……?」
またまた変な名前がでてきたので、硝子は少し名前を整理しようと思って深呼吸した。
まず白猫のキキルは風見鶏のことをルーシーと呼んでいた。白い天使のリーリーはウィルウィルと呼んでいた。そして白い蝶ネクタイをしたカラスのパグはミックと呼んでいる。三つの名前に共通点はない。ただその風見鶏はいずれも大切なものを失くしていて、元気がなくて、だからまわらないから風が吹かない、というのだ。
「風見鶏が三つ子、とか、そういうのはないわよね……」
硝子が一人で考え込んでしまったので、パグはしばらく不思議そうに眺めていたが、突然そうか!と叫んで飛び上がった。
「風見鶏が回らんと、硝子ちゃんはうちに帰れへんから、そんなに考えてはるんやな!」
「え?」
そやそや、と一人で納得しているパグを見て、風見鶏が回ればあたしは家に帰れるのかしら? と考えた。
「ほな、とりあえずわてと一緒に、すぐミックはんのところへ行きまひょ!」
パグが翼をはためかせた。
「あたしを風見鶏のところへ連れて行ってくれるの?」
「当たり前やねん。わて、硝子ちゃんにはホレとるさかい、何でもやったりまっせ」
ばさばさと翼を揺らしながらパグが進みだした。硝子がそれを追いかける。
「そや、ミックはんに手土産もっていったろ」
パグがそう言うと、二人の前方に大きな黄色いとうもろこしが現れた。
「硝子ちゃん、それ持ってくれへん?」
硝子がとうもろこしを抱きかかえるとパグは再び進みだした。
暗いので、カラスのパグを追いかけるのは大変だった。後ろ姿では、白いネクタイは見えないので、離れないようにするしかなかったのだ。
「まって、パグ、まだ、なの?」
息があがってしまった硝子が声がかけると、パグが振り返った。
「えらいすんません。でも、白い扉は見えてきたで」
パグが言うほうへ目を向けると、遠くに白いものが見える。
「まあ、あんなに遠いの? 赤や青や黒の扉は、いつもすぐそばにあったのに!」
硝子が声を上げた。
すると遠くに小さく見えていた白い扉がどんどん大きくなった。
「はあ、すごいパワーやなあ、硝子ちゃんは」
「あ、あたしが?」
パグはしきりに感心していたが、硝子には何がなんだかよくわからなかった。
「ま、ともかくこれでミックはんに会えるわけや」
二人は白い扉の前に立った。
「さ、硝子ちゃん」
パグに促されて、硝子は白い扉のノブを引っ張った。