蒸し暑い夜だった。
空にはくっきりと満月が浮かんでいる。
「この辺か?」
大通りからは離れた住宅街の一角。
幅の広い整備された歩道を歩いていた黒い影が、足を止めた。
「多分な」
人影はひとつだったが、それに答える声がもうひとつ。
けれど周囲にはやはりほかに人はいない。
影が、顔を上げた。
満月の光に照らされてその顔が浮かび上がる。
硬質な声に反して、幼い相貌の……少女だ。
「さすがに個人の自宅までは踏み入れないが?」
「いや、屋外だね」
無愛想な少女の口ぶりに、応じるのは男性の声か。
だが、やはり周囲に姿はない。
かといって、少女が携帯電話で話しているかというと、そういう素振りもない。
周囲の住宅にはところどころ明かりがついている。
まだ街は寝静まるほどではなかった。
が、その歩道を歩いているものはいなかった。
「屋外……。この向こうは、なんだ?」
「んー、公園とか、そんな感じだな」
立ち止まっていた少女が、一メートルほどの高さのフェンスに目をやった。
フェンスは周囲の様子よりも真新しい感がある。あるいは取り替えたばかりかもしれない。
その向こうはまばらにだが、大きい樹木が見受けられる。
住宅街にはつきものの、小さな公園か広場かもしれない。
「……」
少女がきょろりと首を回し、ざくざくと歩き出した。
その足には真夏には不似合いな、そして小柄な少女にも不釣合いな、いかめしいブーツ。
底の厚い編み上げのブーツは、お洒落のレベルからはかけ離れ、安全靴というよりももはやロボットの足に見えたかもしれない。
そのブーツは漆黒で、月明かりに照らされても闇の一部のようだった。
少女が手を伸ばす。
肩とほとんど変わらない高さのフェンスを手で掴むと、ブーツの厚底がざざっと地面を蹴った。
ふわり、と舞い上がるそれは、漆黒のドレス。
凝ったアンティークドールのようなレースとフリルでふわふわしたスカートが、フェンスの上を飛び越えた。
そしてすとんと着地。
そこに、街灯があったのだろうか。
ひとつの影が浮かび上がった。
ブーツ、素足が覗くこともない長さのふわふわの三角を形作るスカート、それに対してシンプルな上半身と、どうやら髪が長いらしいのが見て取れるまるい頭部。
ハンドベルのように見えなくもないシルエット。
いや、影だけではない、影か本物か錯覚しそうなくらい、髪も身にまとっているものもすべてが黒い色彩なのだ。
「夜の公園、か」
少女は中へと歩き始める。
その先に現れたのは砂場だった。
けれど砂は白く固まっていて、水でも入れないと遊べる場所にはなりそうにない。
迂回して進む。
高さの違う鉄棒が二つ、三つ。
その向こうに動物を模した小さな滑り台。
つまらないくらい普通の公園だ。大きな遊具は見当たらない。
いや、乗ってぐるぐる回す遊具はあるけれど、傾いたまま鎖で止められている。
封鎖された遊具を横目でちろりと少女は見て、また迂回する。
「こんなところにいるのか?」
ひとりで歩く少女に連れはいない。
が、少女の言葉に返事があった。
「いるって言ってんだろ! ヒゲがむずむずするんだよ!」
「ああ、猫の勘か」
「カンっていうな!」
返事は。
人の耳にはこう聞こえただろう。「にゃー、にゃー」と。
漆黒の人形の足元をまとわりつくように歩くのは、白い猫。
少女の、相棒だ。
見た目は至って普通の白猫だが、その額に飾りなのか小さな丸いものがついている。
ガラスのように光を受けてきらりと光るが、それがどういう方法でその場所にくっついているのかがわからない。
「……あれか」
半分以上横切ったところで、少女はようやく足を止めた。それを見つけた。
視線の先にあるのは最後の遊具、ブランコ。
そこに腰掛けて、膝から下だけでゆるゆるとブランコを漕いでいる。
明らかに、この時間にいる場所ではない、少年。
周囲に反発したくてひとりでこっそり煙草でもやっているだけのただの反抗期少年なら目にも留めないが、そこにいたのは、まだそんなレベルにも到達していないもっと小さな子どもだった。
少女が足を向けようとしたとき、白猫がすたっと先に前に出た。
「オレが先に行くぜ」
「行ってどうする、猫のくせに」
「猫のくせにって言うな!」
白猫が黒の少女に言い返す。
「いいか! オレがガキの前に現れる、ガキが、あ、猫だ、と言う、そこへおまえが現れる、お姉さんの猫? と言われたらスムーズに会話がスタートするじゃねえか。完璧!」
白猫は尻尾をふりふり得意そうに言った。
けれど、少女はそのアンティークドールの外見に反して、口元を歪めてはん、と小ばかに笑みを浮かべた。
そして、汚いものを吐き出すかのように、言った。
「わたしは子どもが嫌いだ」
「てめーは嫌いなモンばっかだな! 文句ばっか言ってねーで作戦実行だ!」
「文句が多いのは、にゃんたもだろう」
ぴく、と白猫が引きつった。
それまで散々喚いていたが、白猫はひときわ大きな声をあげて言い返す。
「にゃんたって言うな! オレの名前はレオンハルト・ハーネスだっ!」
レオンハルト・ハーネス。
なんて、普通、飼い猫の名前にはつけないだろう。
あるいはその名を白猫に与えた飼い主なら、愛猫をその洒落た名前で呼ぶはずだ。
まちがっても。
「オス猫なんだから、にゃんたでいいだろ」
そんなふうには、言わないだろう。
「それよりさっさと、その作戦とやらを実行して来い」
少女は無造作に、足を蹴り上げた。のわっと白猫が飛んで逃げる。
「やめろよ、その超装甲靴で蹴るの!」
にゃーと文句を言って、にゃんたは身軽に走っていく。
逃げた、のも事実だが、先刻自身が言ったとおり、作戦実行、ブランコの前へとしゅたっと飛び出した。
「にゃーにゃー」
そして、猫好きでなくとも、女子供なら立ち止まってくれそうな、猫らしい声で鳴いてみせる。
けれど作戦はにゃんたの計画通りにはいかなかった。
躍り出てきた猫に、少年は一瞬驚いたように顔を向けたが、すぐに無感動な表情になり、白猫から目を逸らす。
かちん、ときたのはほかでもない、にゃんた……正式名称レオンハルトだ。
こう見えても毛並みには少々自信があるにゃんたとしては、なんだ猫か、みたいな態度を取られるのが非常に嫌いだ。
プライドにかけてもこのガキの意識をこちらに向けさせてやる!
「にゃーにゃー!」
近寄って甘えるように鳴いてみる。……けれど子どもの反応は、ない。
さらに足元に擦り寄ろうとしたら、にゃんたは首根っこを掴まれた。
「ぎゃっ! おい、ハリエ、何しやがる!」
それまでのかわいらしい鳴き声から一転、ふぎゃーっという猫の声に、子どもが顔を上げた。
そして……驚いた。
目の前に猫をつまみ上げた少女が立っていたのだ。
全身黒ずくめなので、いきなり現れたように見えたのかもしれない。
黒い長い髪、たくさんのレースに縁取られた黒のドレス、人形のように表情の動かない顔。
少女の名は今にゃんたが口にした。
ハリエ……森宮ハリエという。
外見からも名前からも、純粋な日本人かどうか判断がつかない。
「子ども」
そして見た目の年齢を裏切る高慢な口調。
「こんな時間に何をしている」
黒の少女ハリエが、あまり高くない身長で少年を見下ろした。
「おい、もっと優しそうに言ってやれよ、この冷血女! 相手はガキだぞ!」
「なんでもないというのなら、面倒だからこのまま交番に家出か迷子の届けをするが?」
ハリエにつままれたままのにゃんたがぎゃーぎゃー言っているが、少年も少女も相手にしない。
ハリエはまっすぐ家出少年……に見える、を観察した。
黒の少女の双眸には、その少年は二重に見えた。
ひとつは簡単だ、この子どもの本来の姿だろう。少しおびえたような顔をしている。
問題はもうひとつのほうだ。昏い顔でこちらを見ている。その顔にはなんの表情もない。
そいつが何なのか、が、ハリエには重要なのだが。
「……い、いや、だ」
子どもがこわばったまま口を開いた。
「喋れるじゃないか。大地に根を盗られて声を縛られたのかと思ったぞ」
「……?」
二重写しの子どもの顔が揃って疑問の表情を呈した。
「ガキに言って意味がわかるかよ!」
にゃんたが抗議の声を上げる、それに対してハリエはちらりと冷たい視線をやった。
なんだかものすごーく馬鹿にされたような気がして、にゃんたがむっと、眉はないけど眉間を寄せる。
そんなにゃんたにかまいもせずハリエは少年をじっと見下ろし、にゃんたもつられてブランコの子どもに注目し……。
「にゃ……っ!」
にゃんたは思わず猫のような声を上げた。ハリエがふっと息を吐く。
首根っこを掴まれたまま、うんっと首を逸らして掴んでいる手の主を見上げる。
「ハリエ、こいつ……」
「喜べにゃんた、おまえの猫のカンが大当たりだ」
にゃーにゃー言ってる白猫の首根っこを掴んでぶら下げたまま、ハリエはブランコを見下ろす。その視線が冷たかったからか、少年はぎくりと反応した。
「おい……怖がってるぜ……?」
「うるさい猫だと思ってるんだろう」
「絶対違う!」
かまわずハリエが一歩踏み出すと、少年が腰を浮かせた。
「お、おい。マジで怖がんなよ」
猫の鳴き声にしか聞こえないことは承知だが、にゃんたが思わず口走る。
一方ハリエはいつもどおりだ。
「別に友好的である必要はないからな」
「そうだけどよ!」
「わかるんだろう」
喚き返したにゃんたは、ぼそりと告げられたハリエのどーでもよさそうな声に再び相棒を振り仰ぐ。
「は?」
「まっとうな子どもってのは、相手が自分の味方か敵か、嗅ぎ分けられるもんさ」
「え。でもガキにそんな……」
「こいつにはまだ、まっとうな部分が残ってるってことさ」
ハリエが手を伸ばすと、子どもはぱっと身を翻した。
ぐしゃりと揺れるブランコの向こうで子どもはあっという間に公園を駆け抜ける。
「はあ? なんだありゃ!?」
そのあまりの速さに目を丸くするにゃんたは、次の瞬間ぽーん、と宙に投げ出された。
「そういうヤツなんだろ。ささと追いかけるぞ」
「あの速さに追いつけってのかよ!」
一応猫なので、華麗に着地してそのまま走り出す。
その後ろをハリエが追いかけてくる。
「じゃあなんのためにおまえ猫なんだ」
「追いかけるためみたいに言うなっ!」
やけくそ気味に言い返すと、にゃんたは通りへと文字通り飛び出して大急ぎで飲食店の派手な看板を駆け上がる。
「ホーク・アイ!」
にゃんたの気合の入った台詞と同時に、猫の額の飾りが金色に光った。
「どうだ、見えたか」
公園のほうから走ってきた黒ドレスの少女が白猫を見上げた。
「ああ、東だ!」
「東……? 商店街のほうか?」
「じゃなくて、城跡公園のほう!」
「ああ」
うなずくとハリエは再び走り出した。
「きっとあの子どもの行動範囲なんだ」
「おい! オレを置いて行くなよ!」
重いブーツと広がったスカートなど苦ともせず走り去るハリエに、にゃんたは文句を言って看板を一蹴り。
こいつといると怒ってばっかで血管切れそうだ、と思いながらダイビング。
ぶわっと飛んで白猫は、相棒の頭の上に見事着地した。
「それにしても」
ハリエが相変わらずの棒読みで言った。
「猫のくせに、おまえの技の名前、間違ってるよな」
「ほっとけ!」
結局また喚き散らすにゃんただった。