大通りからひとつ入った通りは、信号こそあるものの、車も人影もまばらだった。
「ハリエでも人目を気にするんだな」
 彼女の頭に乗っかったまま、にゃんたが呟いた。
「あ?」
 ハリエが応えて少しあごを上げると、にゃんたはずり落ちそうになってはしっとしがみつく。
「痛いぞ馬鹿。人目がなんだって?」
「馬鹿は余計だろ! おまえが人目を避けて裏通りを通ってるのを感心してやったのによ!」
「はあ?」
 まるで馬鹿にしたように……いや、彼女の場合、本気かもしれない、鼻で笑った。
「別に人目を避けてるわけじゃない。こっちのほうが近道なのさ」
 小さな交差点。信号は赤だが、立ち止まりもせずに走り抜ける。
「そうなのか?」
「おまえ猫だろう、一番の近道とか知ってるんじゃないのか」
 ハリエは走り続け、けれど息も切らさず相棒に言い返す。
「オレをその辺のノラや、のんきな飼い猫と一緒にすんな!」
「……野良みたいなものだろ」
「違うってーの!」
 頭の上でじたばたする猫のことなど気にせず、差し掛かった二又の分かれ道をためらわず左へ。
「……て、右じゃねーの?」
「子どもの行動範囲だと言っただろう? 公園の正面入り口へいく必要はないのさ」
「ふーん?」
 にゃんたが不思議そうに唸るような声を出す。
 自分がヒトじゃないからか、地理に明るくないからか、相棒の少女の言うことがよくわからない。
 道はやや上り坂だが、ハリエの足は緩まない。底の厚いブーツが、力強くアスファルトを蹴り続ける。
 坂を上りきると、目の前に橋があった。
 あまり大きくないその橋の真ん中で、ハリエは走り出してから初めて足を止めた。
 どうした、とにゃんたが口を開く前に、ハリエが促した。
「隣の橋だ。あの子が見えるか」
 言われて慌てて、にゃんたはホーク・アイを起動させる。
 猫のくせに、とはハリエの口癖のひとつだが、こればっかりはにゃんたも強く言い返せない。
 猫の目では、遠くの目標を捉えることが出来ないのだから。
「……いた! あのガキ、どこ通って来やがった」
 二人が目標にしている城跡公園は、わりと有名な大きな公園だ。車で国道を走っていれば、観光案内の看板が誘導してくれるだろう。
 その先で通る橋は、川を渡っているとは気づかないような道になっている。
 けれどこの川は街を縦断している。かかっている橋はひとつではない。
 その地に住んでいる人間が、日常に使用する橋が複数ある。
「どこでも」
 ハリエは短く答えて、再び走り出す。
「地元の子どもなら、道なんていくらも知ってるものさ」
 短い橋を渡り切ると、ハリエはその先の道も迷わず選ぶ。
 急カーブに続き、今度は下り坂。
 頭の上に乗っているにゃんたは、振り落とされないようにしがみつく。
「おまえも詳しいんだな!」
 階段になった道をハリエが一段飛ばしで駆け下りると、にゃんたの体はぽんぽん跳ねた。
 のわわ、と思っていると手が伸びてきてにゃんたをむんずと掴む。
 胸に抱くようにして、さらに加速。
 別に不安定なにゃんたが可哀相で、ハリエは抱いてくれたわけではない。
 頭の上で猫がぽんぽん弾けるのが邪魔だったのだろう。
「一応これでも」
 ハリエの棒読みが、今度は頭上から届いた。
「地元の子どもだったからな、むかしは」
 階段が終わると、視界はいきなり開けた。



 川に沿った遊歩道、とでもいうのか。
 公園というほど広くはないが、観光客が歩いていてもおかしくない、それなりに整備された小道だ。
 けれど今は夜。街灯もないこの場所は開けているだけで、明るい場所ではなかった。
 下りの階段を駆け下りてきたハリエは足を止め、にゃんたが周囲を確認するかしないかのうちに、またもぽーん、とにゃんたを放り投げた。
「こら! いきなり投げんな!」
 にゃーと鳴いて、すたっと着地。
 そして、急いで回り込んだ。
 二人の目の前には、あの少年がいたのだ。
 子どもの顔は固まったように動かないまま、進行方向から現れた黒の少女と猫らしく俊敏に動いて背後へ駆け込む白猫を認識したようだ。
「体力勝負は好きじゃない」
 ざく、とハリエのブーツが音を立てた。
 けれどそういうハリエの息はちっとも乱れていない。乱れているのはせいぜいその長い髪くらいか。
「逃げ場はないぜ」
 にゃーとしか聞こえない相手ではあるが、にゃんたは得意げに優位を宣言する。
 それにしても、とにゃんたは思う。
 走って逃げるなんて発想は、その速さは別としても、普通の子どものやることだ。
(なんだよ、こいつ……)
 けれど今、目の前にある背中はとても普通の子どものよう、とは言えなかった。少し腰を落として隙をうかがっている。こちらを敵と認識して逃げようとしているようだ。
(……ヒゲがむずむずするー!)
 こいつはもう、大当たりだ。猫の勘だろうがなんだろうが大ビンゴだ。
「ほう、同化を始めたな。だが無理矢理やってできることではないぞ」
 ざく、とハリエが土を踏んで歩く音がする。
 漆黒のドレスのアンティークドールが、人形のように変わらぬ表情で一歩、また一歩と少年に近づく。
「むりやり……って、じゃあこいつ、オーキューブなのか?」
 にゃんたは少年越しに相棒に訊ねた。オーキューブ……昼の太陽の下で力を解放する箱の欠片。
「そうだろ」
 ハリエが短く答えた。
 少年は動揺したのか、あるいはこの会話を隙と捉えたのか、川とは反対の木々のほうへ走りだそうとしている。
 ハリエにもそれはわかっているだろうが、黒の少女が取った行動は相棒の名を呼ぶことだった。
「にゃんた」
 む、とにゃんたは鼻の頭にしわを寄せる。
 それはオレの名前じゃない、と言いたいのをぐぐっとこらえて返事をする。
「なんだよ」
「あいつを川へ叩き落せ」
 黒の少女が無造作に言った。言い捨てた。
 咄嗟ににゃんたは自分の足元を見て、川に目をやって、それからハリエを見返した。
「おまえそれ、完っ璧、悪役の台詞だろ」
「はっ」
 にゃんたの突っ込みに、ハリエはその人形のような顔を少し歪めて、笑った。
「正義の味方になった憶えはないからな」
 あっそ、と、もううんざりして、にゃんたは額に集中する。
 そこにあるのはセレキューブ……夜の月の下で力を解放する箱の欠片。
 にゃんたの額の金のピースが光を蓄える。
 今夜は晴れていて、月明かりの充電レベルは上々だ。
「ダイダル・ウェーブ!」
 溜まった力を気前よく解き放つ。
 にゃんたの気合に反応したのは川の水……ではなく、舗装されていない遊歩道の大地だった。
 地面が、水面に変わったかのように、波打つ。
 にゃんたの足元も、ハリエの足元もなんともないのに、その少年の足の下だけ地面が波打ち、そしてベルトコンベアーのように少年を運び始めた。
 大きな揺れ動きではないけれど、少年はぎょっとしたように地面にしがみついた。
 にゃんたは、おや、と思った。
 ここで追い詰めてから動かなかった表情が……なんかヘンだ。
 えーと、と考える。
 さっきハリエはなんてった?
 ムリヤリ同化しても出来ないぞ、て言ったっけ?
 でも地面に必死にしがみついているのはただのガキに見えるけど。
「――にゃんた」
 少年を挟んだ向こう側で、ハリエが呼んだ。
 考え事をして手がおろそかになったのを責められるのかと、ちょっと身構える。
「いや、そうじゃない。こっちへ来い」
 まるでそれを見透かしてハリエが顎をしゃくって呼んだ……呼びつけた。
 川のほうへと運ばれていく少年をちらっと横目で見て、それからにゃんたは、とおっ、と跳躍して相棒の元へと駆け戻る。
 黒ドレスが左腕を差し出してくるので、その上に踊り乗る。
「わかったぞ。片付ける」
 にゃんたが左肩に乗ったところで、ハリエは呟き、右手を伸ばしてきた。
 そして、おもむろに。
「ぎゃっ!」
 にゃんたは悲鳴を上げた。
「こら! いきなりしっぽ掴むな!」
 にゃんたがわめくのにはお構いなしで、ハリエはその白猫の尻尾をむんずと掴んだ。
 にゃんたの全身の毛が、ぞわわと逆立つ。
「んで! どっちだよ!」
 怒鳴りつければ黒髪の相棒は艶やかに……嘲笑した。
「見てればわかるだろう、『大地』だ、馬鹿」
 見た目に反して、けれど口元の笑みからは予想違わず高慢な口調で命令。
 白猫がくそっと吐き捨てると、その額の金色の飾りが光を放った。
 そして光はにゃんたの全身を包んでいく。
 ハリエは驚くこともなく、掴んでいた尻尾の感触が尻尾のそれではなくなると、ぐっと力をこめて握った。
 もう、わめきかえすにゃんたの声はない。
「さて、こちらの準備は完了だ。観念するんだな、『風』のオーキューブ」