やたらいかつい編み上げのブーツ、素足が覗くこともない長さのふわふわの三角を形作るスカート、それに対してシンプルな上半身と、どうやら髪が長いらしいのが見て取れるまるい頭部。
ハンドベルのように見えなくもないシルエット。
そして手には、金色の剣。
ハリエは、その手に金色に輝く幅広の剣を握っていた。
にゃんたがにゃんたでなくなると同時に、地面のベルトコンベアーは機能を停止し、少年はもがくように流されていた川べりから這い上がってきた。
こいつの属性の解析と時間稼ぎにはなった、とハリエは思う。けれどもういい。泳がせる時間はここまでだ。
にやりと笑って剣先を少年に向けた。
「猫が……剣に……?」
少年の眸が一瞬光を宿し、少年の声が当然の反応を見せた。
が、次の一瞬でそれは塗り変えられ、唐突に表情が変わる。表情が……消える。
まるで人形のような顔になる。
と同時に、少年がぐわっと両腕を振り上げた。これまで走って追いかけっこをしていた少年とは、種類の違う動作だった。
目の前を電車が通り抜ける地下鉄のホームのように、まっすぐでいてかき混ぜられたような風が巻き起こる。
ハリエは黄金の剣を掲げてそれを阻んだ。
風の流れが剣に切り裂かれた。
「少しは同化が進んだか」
小柄なハリエに大きな剣は随分と不相応に見えるが、重さなど感じさせない素振りでハリエは剣を振る。
「だがいまのおまえの手札がそれしかないことはわかってる」
ハリエは剣を握りなおすと刃越しに少年を見て、にやり、と笑った。
「それに、弱点も見え透いてるしな」
少年が獣のように唸った。
でもそれは少年の声ではなくて、風の音が獣の声に聞こえるのと同じだ。
周囲の空気が共鳴するようにぴりぴりと揺れる。
振動は次第に大きくなり、ハリエの髪の毛までがぴりぴりと震えだす。
けれどハリエは対峙したまま少年を、まるでどうでもよさそうに眺める。
無言のにらみ合い……と言えなくもないそれに、先に変化を起こしたのは、少年のほうだった。
まるで、それこそ猫のように、いきなり地面を蹴って飛び出した。
が、ハリエは驚いたりはしなかった。
にやりとした笑みを深め、両手で握っていた剣を勢いをつけて足元に突き立てた。
黄金の光が、その瞬間、剣から大地へと広がる。
水面に広がる波紋のように、金色の円が大地を染めていく。少年はたたらを踏んで急停止した。
そんな少年に向かって光は大地を駆けていく。
と同時に空気の振動が吸い込まれるように消えていく。
少年も何かを吸い取られたかのように無防備に立ち尽くす。
それをハリエはまたどうでもよさそうに眺めた。
「少しは進んだ、とはいえ、やっぱりほとんど同化してないな。見つけるのが早かったってことか」
少年は昏い表情とおびえただけの普通の少年の顔を交互にあらわす。
同化しきれていないうえに、ズレてきている。
ところが唐突に少年は再びハリエに飛びかかろうと試みた。走り出すそれはまるで助走。
ふ、とハリエが息を吐いた。
「観念しろって言っただろ」
ハリエは突き立てた剣を引き抜いて、けれど即座に勢いをつけなおして再び大地に突き立てた。
今度は光ではなく、大地を揺るがす振動が起こる。
けれど揺れているのはその場所、だけだった。にゃんたの水ではなく大地を操るダイダル・ウェーブに似ている。
ハリエの足元は揺ぎ無く、周囲の街路樹や草一本だって揺れてなどいない。揺れているのはその場所……少年の足元だけだ。
否。似ているのではない。力の源は同じ、にゃんたの中にある『大地』のセレキューブなのだから。
少年が立っていられなくなり手を地面についた。
「うわあ!」
少年の悲鳴が上がる。それは年相応の子どもの声。
キューブ――『箱』の力に取り込まれかけてはいるが、少年はまだ、そこにいる。
びりびり、と大地が揺れる。ぴりぴり、と空気が震える。
「言っただろ」
ハリエが黄金の剣を握ったまま、少年を眺める。それは少年なのか、それとも違うものなのか。
「おまえの弱点は見え透いてるってな」
ハリエがまた無造作に剣を引き抜き、また突き立てた。
「……わたしは畑仕事をするつもりはないんだが」
その台詞はあまりにも棒読みすぎて、冗談なのかどうかもわからない。
ハリエはもう笑みもなく、幾度目かに剣を抜いて、突き立てた。
そのたびに大地が揺れる。
それだけなのに、少年の姿が揺れた。
「そろそろいいか」
ハリエの手が止まると少年がまた唸り声を漏らして空気を揺らすが、ハリエはびりびり揺れる髪の毛やスカートのレースを少し鬱陶しそうに払う。
そして、畑仕事と例えられ突き立てられた剣を地面から引き抜くと、今度は剣を槍投げのように振りかぶった。
「出番だ、にゃんた」
相棒の名を呼ぶ。いや、にゃんただったら言うだろう。
「にゃんたって言うな! オレの名前はレオンハルト・ハーネスだっ!」
ハリエが、ぽーん、と剣を放り投げた。
黄金の幅広の剣は宙を飛んで、そして、白猫の姿に変わった。否、戻った。
「こら! ぽんぽん投げんな!」
にゃーっとわめいて飛び出したにゃんたに、ハリエは相変わらずの声音で言った。
「無駄口はいいからさっさと押し出せ」
「くそっ! プッシュ・アウトーっ!」
投げやり気味に叫んで、にゃんたは少年に飛びかかった。
額のピースが金色に光る。
白猫と少年が目を合わせた……かもしれない、次の瞬間、にゃんたが少年の顔にべちゃっと張り付いた。
にゃんたの重さなんてほんの数キログラムだが、それでもそんなものがいきなり頭……というか顔を押したら、バランスを崩すのは物理的には間違ってはいない。
ぐらりと後ろの傾く子どもの身体。
どたーんと倒れる音。
普通の大人なら少年を心配して駆け寄るとか覗き込むとかするだろう。
けれどこの場で唯一の傍観者は、徹底的に傍観しているだけだった。
そして、倒れた少年を見ていたのはハリエではなく。
「同化したうちにも入らなかったな」
ふ、とハリエが嘲笑した。ひとを馬鹿にして、それを隠そうともしない笑み。
にゃんたに少年を押し出されてしまったそれは、完全に少年と分離して、そこにひとりで立っていた。
人の形に見えなくもないが、間違って起き上がってしまった影法師のように。
ゆらり、と影がハリエを見た。
そうすることで、さっきまでは同化に失敗した少年を見ていたのか、とやっと気付くくらいだ。
風が唸るような音がした。ビルの間を通った風が、動物の声のように聞こえたり、人の……幽霊の声に聞こえたりするあの音に似ている。
影が腕のようなものをぐんっと突き出すと、ハリエの長い髪が一斉に後ろになびいた。
にやり、とハリエは唇を吊り上げた。
「せっかくやる気になったらしいところ、水を差してすまないが」
ちっともすまなさそうではなく、ハリエが微笑む。
「おまえの相手は、わたしではない」
悠然と否定の言葉を口にする。
もし相手が会話をする意思のある存在だったら、何を寝ぼけたことをと思っただろう。ここまで追いかけてきて、剣まで振りかざしておいて「おまえの相手は、わたしではない」?
ならば相手はほかにいるのか、と、考える思考はあっただろうか。
「だーっ! 重い! 痛い! なんかオレ、損な役ばっかじゃねーの?」
盛大に文句を言って現れたのは、にゃんただ。
少年が倒れると同時に、彼が頭を打たないように頭の下に潜り込んでいたのだが、横になり目を閉じている少年の肩辺りからぴょんっと出てきたところだ。
「そう言うな。いつも損なおまえのために、最後の見せ場を取っておいてやったぞ」
相棒の白猫に向かって、黒の少女はまるで親切そうに宣言した。
「げ。なんだよそれ。おまえがトドメ刺すの面倒なだけだろ!」
「そうとも言うな」
「あっさり認めんな!」
にゃんたは前足で頭をがしがし掻いた。
「猫の癖に人みたいなことしてないでさっさと済ませろ。相手はおまえの目の前だ」
「わかってる、よッ!」
言葉尻に勢いを乗せて、にゃんたは跳躍した。
白い姿が夜闇を横切り影の上部に飛びつく。人間であれば頭の部分、もっと細かく正確に言うな額に。
がしっとしがみつくと、バランスをとっているのか猫の尻尾がゆらゆら揺れた。
影の手が伸びてにゃんたを捕らえる前に、にゃんたはぴよーんと飛び降りる。
急いで走って、子どもが母親にやるようにハリエの後ろに逃げ込む。
「オーキューブのピースの場所は最初に飛びついたときチェック済みなんだよ!」
ハリエの後ろから猫があっかんべーをしてみせた。
けれど影にはその意味などわからなかっただろうし、それ以前に見えてもいなかっただろう。
にゃんたはよじ登って、ハリエの頭の上に顔を出す。
「トドメは?」
「不要だろ」
ハリエが短く言った。
文字通りハリエは一歩も動かず、ずっと傍観していた。
そんな黒の少女と白猫の前で、影法師は夜闇に溶けるように、消えた。
「にゃ、にゃにゃ……っ」
とことこ歩いていくハリエの足元で、にゃんたがつまづいたようによろめいた。
「おまえ、猫の癖にこけるのか」
ハリエが呆れたように言うのににゃんたはむっと顔を上げた。
「コケたんじゃねーよ!」
お約束のように相棒に言い返すと、にゃんたの額のセレキューブがぼんやり金色に光った。
「反応しているのか」
「反応っていうか、反発だな」
額飾りのようなそのキューブの欠片、ピースが、にゃんた自身に見えるはずはないのだが、にゃんたは目を寄せて自らの額を見上げた。
金色の光が緩み、緑のような色に変わる。が、今度は赤になり、それからまた緑になる。
「でたらめな信号みたいだな」
「好きでやってんじゃねーよ」
「あるいはメールを受信中とか」
「オレはケイタイかってーの!」
歩調は緩めず進んでいくハリエに、にゃんたは突っ込みながらついていく。……のだけど、ハリエのほうが歩くのが早くてにゃんたはときどき小走りになる。
追いついてハリエに並んで歩いていると、自分の中に保管している今回の回収物がまたぞわぞわと蠢いた。
下を向いて「うー」と唸る。
にゃんたは基本的にセレキューブだろうがオーキューブだろうが『容れられる』体質ではあるが、相性がいいのはなんといってもセレキューブだ。けれどオーキューブだからといって負担というほどのことはない。きっとあと数時間もすればなんてことなくなるだろう。
隣からちらりと視線が向けられたのがわかった。でもそれはちらりとだ。
「風のオーキューブか」
ハリエが前を向いて呟いた。
「そいつをわたしのブーツに『容れ』たら、もっと早く走れるようになるのかな」
アンティークドールのような顔で小首をかしげて、そう言った。
にゃんたは……脱力した。
「おまえな、それ以上早く走ってどーすんだよ」
ひげをぴくぴくさせて言い返す。
まあ、この相棒がにゃんたのことを心配してくれる、とはあまり期待してはいないけれど。
ハリエはやや心外だなという表情をした。
「それ以上というがな。このブーツに入っているのは大地のセレキューブだけだぞ」
「知ってるよ! わかってないのはおまえのほう! 大地のセレキューブを『容れ』てるブーツに、風のオーキュ−ブが『容れ』られるワケないだろッ!」
「ふうむ」
ハリエは少し考える顔をして。
「駄目か、やっぱり」
「あたりまえだッ」
にゃんたが喚いた。
まったくだ。
確かに風のキューブの欠片を『容れ』たブーツなら、風のように速く走れるだろう。
ちなみに今のハリエが履いているブーツには大地のキューブが『容れ』られている。大地とさえ繋がっていればどんなところでも歩ける、というハリエ曰く便利な代物になっている。
にゃんたからするとハリエはあのブーツで歩くたびに、大地からパワーを吸い上げているんじゃないかと思う。
でなければ仮にも猫の自分が遅れをとるなんてありえない。そうだ、そうに違いない。
「じゃあそいつは羽にでもしてもらうか。空が飛べるようになるぞ」
さくさく歩きながらハリエが棒読みで言った。
あまりに棒読みすぎて冗談かどうかもわからない。
「……マジで?」
「冗談だ」
さらりと言い返されて再び脱力する。
こいつ、オレをからかってんのか、と思ったが人形の顔はいつもとちっとも変わらない。
そのとき、ぴぴぴ、ぴぴぴ、とひどくシンプルな電子音がした。
お、とにゃんたが顔を上げるがハリエはまるで無視。
「おい、おまえのケータイだろ!」
にゃんたが指摘するとちらっとにゃんたを見下ろして、それからちっと舌打ちした。
「チッ……って、おまえな」
呆れているにゃんたに向かって、ハリエはポケットから取り出した携帯電話を投げて寄越した。
「にゃっ」
慌ててにゃんたが前足でキャッチ。
ハリエはそれを確認もせずにすたすたと。
「おい!」
「おまえが出ろ」
「なんで! てゆーか、オレ、四足動物なのわかってんのかよ!」
後ろ足で立って前足でケータイを抱えている猫なんて、滑稽意外の何だというのか。
しかもぴぴぴと鳴りながらバイブレーション機能がぶるぶると振動を伝えてくるのがむずがゆい。
「あー、はい、モシモシ?」
仕方ないのでにゃんたが電話に出た。
その第一声がおかしかったのか、ハリエの背中がくっと笑った。
は、腹の立つヤツだな!
「あーそうだよオレだよ」
携帯電話に向かって喋りながら、後ろ足でよちよち歩く。ガニ股なのは仕方ない。だって猫だし。
「んなこと言ったってハリエのやつがオレに出ろって……」
にゃんたが話している相手が誰かハリエには当然わかっているんだろう。少し先でちらりと振り向き、くくくと肩を震わす。
きっと人間みたいに立ってケータイで喋ってんのがおかしいとか思っているのだろう。くそ。
「あ? ハリエ? そりゃいるけど……」
この際ハリエのことは置いといて電話の相手に集中する。
「ああ、まあ…………って!」
で、集中したら気付いた。
にゃんたのひげがぴくっと揺れた。否、引きつった。
「おいコラ! おまえまでにゃんたって言うな! 俺の名前はレオンハルト・ハーネスだっ!」
ケータイに向かって怒鳴りつける。
前方でハリエが堪えきれなくなった笑いを空に向かって吐き出した。
まったく! どいつもこいつも!
蒸し暑い夜だ。
空にはくっきりと満月が浮かんでいる。