予備の弾倉も尽きてしまい、かといって、今は役に立たない拳銃も小銃も、捨ててしまうのには危険すぎる。
 どこかに、やられてしまった兵の落とした代わりになる銃や弾がないとも限らないし。
 それに手にしていれば撃つか撃たないかは別として、こちらには武器があるぞ、という威嚇にもなるし。
 ……この場合撃てない、のだけれど。
 突撃銃を抱えたままアルスは、その建物の影に駆け込んだ。
 ここまでくれば、前線からは遠いし。
 そう考えたとき、背後に人の気配を感じて銃を向けて振り向いた。
 撃てないと頭ではわかっていても、そうするしかなかった。
 そして振り向いた先には。
「アルス!?」
 名を呼んだのは、同僚だった。
「ケイディア、クルール……」
 がくっと銃砲が下がる。同じ部隊に属する仲間だが、どうして彼らまでここにいるのだ?
 前線はこことは反対方向だというのに。
「おまえ、こんなことろでなにしてんの?」
「……それはこっちの台詞だ」
 互いに小銃を下ろすと、ほぼ同時にそこへへたり込む。
「アルスもはぐれたんですか?」
 仲間のひとり、クルールが訊ねてくるのに、アルスは苦笑した。
「ということは、おまえたちは本体とはぐれたのか?」
「はぐれたっつーか」
 ケイディアが、その赤い髪をかき上げながら忌々しく吐き捨てた。
 銃も長い足も投げ出して、建物に背を預けて、どんよりと煙に覆われた空を見上げて。
「俺らの小隊、切り離されたんだよ」
「え?」
 ケイディアが手放した小銃はアルスと同じものだが、そこに弾倉はなかった。
 同じか、と思った。
「切り離された?」
「ああ。俺らは一番左翼の配置で、気が付いたら取り囲まれてて、一点突破を試みたけど、気が付いたら仲間はどこへやら、だ」
「……そうか」
 アルスはケイディアにやった視線を、ふたたび足元に落とした。
 ケイディアとクルール。そして自分は、皆同じイエニィ軍の軍服を身にまとっている。
 自ら選んだ道だった。
 祖国イエニィが、テュルク帝国の属国になるのを拒否したのが始まりだ。
 テュルクは周辺の小国を次々と侵略し一大帝国にのし上がり、小国とは言えないはずのイエニィなどにも、軍事干渉を行ってきていた。
 誰もが危険と警戒を嗅ぎ取っていたところで、テュルクは、ある意味予想通り、想像通りの行動にでたのだ。
 イエニィを属領とする、と一方的に宣言した。
 けれど、そんなことイエニィの国民が受け入れるはずもなく、抗議行動がやがて軍事対立になったのも、さほど時間を要さなかった。
 イエニィの軍は一気に膨れ上がった。
 少年はおろか少女までも、軍服に身を包んだ。
 それでも、テュルク本国からすると、地方の内乱でしかなかった。
 本国からの派遣されたのはわずかな部隊で、あとは、近隣の小国家から集められた軍が、イエニィを迎え撃った。
 なので彼らはテュルク軍であって、テュルク軍ではなかった。
「ええい、くそっ! うっとうしい空だ! 今が昼だか夜だかもわかりゃしねえ」
 ケイディアが空にまで悪態をつく。
 事実、この小競り合いが続くようになってから、空はずっと硝煙で曇っていた。
 ケイディアの言うとおりではあるけれど、時刻は今、午後……夕刻に近い頃のはずだ。
 これから日が暮れたら、もっと暗く寒くなるに違いない。
 アルスは立ち上がると、背を預けていた建物を見上げた。
「どうしましたか、アルス?」
 クルールが同じように見上げてくる。
「いや、本隊や本国に帰る術がないまま夜が来るのはまずいだろうと思ってな」
「俺は帰るぜ! 意地でもな!」
 がんっとケイディアがこぶしを壁に打ち付ける。
 壁がわずかに震えてぱらぱらと何かが降ってくる。
「もちろん俺だって帰るさ。でも……」
 アルスは見上げる。イエニィにはない感じの建物だ。そう、こういうのは、テュルクに見られる。やつらが「先進的」と称する建造物。
 白い壁には模様もレリーフもなにもなく、決まった寸法の箱型をしている。等間隔に窓があり、それらはすべて同じ形大きさをしている。
 どーん、と大きな音がして、地響きがした。
 三人は揃って音のほうを向いたけれど、そこに敵はいなかった。
 なんとなく、遠くで強い光がほとばしったような気がしたが、雷光と同じでいつまでも空にとどまってはいないようだ。
「でも、武器のひとつもなしに、あそこの本隊に合流するのは無理だし、前線が離れたとはいえ、本国に近い連絡所までもここからでは遠いな」
 アルスが冷静に言えば、ケイディアがくそっと吐き捨てる。
「太陽が見えませんが……今は夕刻、ですよね、アルス?」
「ああ、俺もそう思う」
 弾の尽きた小銃を拾い上げ、白い壁際に歩き出す。
 この建物、入り口はどこだろう?
「おい、てめー、どうする気だ?」
 座り込んだままのケイディアが顔を向けずに声をかけてくる。
 声にとげがあるのは、もちろん、アルスが考えていることがわかっているからだ。
 そう考えるケイディアのことも、アルスはちゃんとわかるけれど。
「たぶん、おまえが思っているとおりさ」
「おまえはこのテュルクの不気味な基地で野営しようってんじゃねーだろうな!」
「もちろん、そのとおりさ」
「ふざけんな!」
 怒鳴りつける同僚を振り返れば、立ち上がったケイディアが想像通りの形相でこちらを睨んでいた。
「ふざけてない。俺は大真面目だ」
「こんなもん! ぶっ壊してやる!」
 どん、とケイディアが白い壁にこぶしをぶつけるが、ぱらぱらと落ちてくるのはこの戦闘のせいで壁を汚していた煤や埃ばかりだ。
 建物それ自体はびくりともしない。
 残念ながら、テュルクの技術というのが、イエニィの一歩も二歩も先を行っているのは認めざるを得ないのだ。
「くっそぉ……!」
「敵の物資があれば奪えばいい。相手がテュルクなら遠慮することもないだろ」
 そしてアルスは再び歩き出す。
 クルールがその後ろを付いてきた。
「……僕は、こういうテュルクの建造物を間近で見たのは初めてです。なんだか……不気味ですね」
「ああ。なんでもテュルクの本国っていうのは、こういう建物ばかりなんだそうだよ」
「はあ……。この面が正面なのか側面なのか、それとも背面なのか、それもよくわかりませんね」
「そうだな」
 ひたすらまっすぐ続く壁をたどると、ぴったり直角に壁は折れ曲がる。そして、また同じような白い壁と四角い窓が切り立っている。
「……中に、入れるのかな?」
 アルスが不安をそのまま口にすると、隣にいたクルールは神妙に頷いた。
 この建物の入り口がどこだかわからない。
 もしかして自分たちの知識では、入り口を見つけ出せないのではないかとまで思った。
 それでも一応四角い建物は壁が四面あるのだから、と歩き出す。
 しばらくするとアルスとクルールの後ろにケイディアが追いついてきた。
 同じように小銃を肩に担いでいる。
「ここは……使われていないのでしょうか?」
「じゃなきゃなんだ、中にテュルクの人間がいるっていうのか」
 どこも真っ暗な窓を見上げてクルールが言うのに、ケイディアが機嫌悪そうに答える。
「少なくとも今はいないように見えるな。でも……どうなんだろうな」
 規則的な窓ばかりある一面を歩き終え、また同じような直角に曲がる。
 その先もやはり真っ白な壁が立ちはだかり。
「あ、ここはさっきまでとちょっと違いますね!」
 クルールが言うとおり、建物のちょうど中央くらいにそれまでにはなかった空間が作られていた。
 あれが入り口か、と思った。
 足元には踏み台のような、小さな階段が二段ほどあり、まるで祭壇のようになっている。
「行ってみましょう」
 先頭を切って歩き出すクルールに続いて軽く駆け出したアルスは……咄嗟に、銃を構えた。
 背後の気配から、ケイディアも同じように反応したことがわかる。
 手に銃を持っていなかったクルールは反射的に匍匐状態になっていた。
 そんな三人を、ひとつの銃口が捕らえていた。
 おそらく三人の話し声か、あるいは気配を感じ取ってここで待ち伏せしていたのだろう。
 小銃は正確に、三人の中央に立っていたアルスにぴたりと向けられていた。
「くそっ! テュルク人か!」
 少し後ろにいたケイディアが忌々しくその名を口にした。
 そうだろう、だって、その人はテュルクの軍服を着ていたから。
 けれどアルスは、思わずぽかんとその人物を見返してしまった。
 もともと銃弾の入っていない小銃ではあるけれど、ゆらりと銃砲が力を落として地面に向く。
「……アルス!?」
 そんなアルスに驚いたクルールが名を呼ぶと、びくっと反応したのは……アルスではなかった。
「……アルス?」
 クルールでも、ケイディアでもない、もちろんアルス自身でもない声が、その名を呟いた。
 アルスだって驚いたが、向こうも驚いたようにアルスを見つめて、そして、飛び出した。
 クルールや、ケイディアがなにか口走って手を出そうとしたようだけど、それよりも彼女は早かった。
 ……そう、彼女だ。
 軍服をまとって、髪も軍帽に収まっているから一見よくわからないけれど。
「アルス!」
 その声は間違いない、女の子の声だ。
 彼女の声が自分の名を呼ぶのを、アルスは何度も何度も耳にしていたから、間違えるはずはない。
 彼女は駆け出して、アルスに飛びついた。
 アルスのほうが頭一つくらい背が高いので、文字通り飛びつくように彼女の腕がアルスの首に回される。
 アルスは手の小銃を取り落とした。
 胸に飛び込んできた頭から軍帽が落ちて、青い髪が背中に広がる。
「女、の子?」
 クルールが呆然と見上げて呟いた。
 アルスと並べば一目瞭然だ。小柄な身体、長い髪。
「女がなんだ! テュルク人なら容赦はしねえ!」
「ちょ、ちょっと待てケイディア!」
 今にも殴りかかろうとしている同僚に、アルスは手を上げて制する。
「てめえ! 女だからって甘い顔すると痛い目に合うぞ!」
「わかってる! おまえの言うことはわかるから、ちょっと待て!」
 アルスは慌てて、両手を彼女の肩にかけた。
 彼女はアルスを確認するやこうして飛びついてきて、そして……顔も上げない。
 とりあえず話を、と思って、アルスが彼女を引き剥がそうと肩を押すと、ずるり、と彼女は膝から崩れ落ちた。
「えっ?」
 慌てて今度は身体を抱きとめる。
 かろうじてアルスの肩に留まっている彼女の両手にはすでに力もない。
「どうし……」
「ああ、アルス」
 とろりと見返す銀色の双眸。間違いない、彼女だ。彼女なんだが。
「会えて……良かった……」
 その人間らしくないと言われていた瞳が瞼の奥に消えていく。
 腕の力が抜けていく。
 アルスの腕の中から、すり抜けていく。
「おい! どうしたんだ!」
 テュルクの軍服を着ているから、敵兵だとか。
 そんなことはわかっているけれど。
 必死に彼女を引き寄せて。
「……ナルサス!」
 彼女の名前を呼んだ。