そこはやはり、入り口のようだった。
 けれど、アルスたちでは開けることが出来ず、一応屋根のある場所を確保したけれど、それだけだった。
 いや、それだけ、でも良かったのかもしれない。
 どんよりと重たい空に見えたのは、雨雲がせり出していたからだったようだ。
 しばしケイディアと口論していると、雨が降り出したのだ。
 三人はとりあえず屋根の下へと移動する。
 彼女ももちろん、アルスが抱えて移動した。
「そんなやつほっとけ!」
「馬鹿なこというなよ。敵だというならそこらへんにほっとくのもどうかと思うぞ。知らないうちに目覚めて、襲い掛かられたらどうするんだ」
「……じゃあ、縛り上げるか」
「縛り上げるロープがあるならね」
「くそっ!」
 ということで結局、アルスが目を離さない、という条件で、一緒に雨宿りをしていた。
 雨が降り出すと、あたりはみるみる真っ暗になった。
 前線の方向が、建物の反対方向らしいため、戦闘の明かりは直接目に出来ない。
 代わりに、夜闇を切り裂くような雷光は時々目に付いた。
「くそ、本隊はどうなってんだ」
 そんな空を睨みながら、ケイディアが悪態つく。
 こんなところでは到底情報は手に入らない。
 あるいは、テュルクの技術を持ってすれば、この建物の中になにかあるのかもしれないが、生憎自分たちではどうしようもない。
 そして、彼女が目覚めたとしても、彼女ははやり、敵兵でしかないのだろうか。
 それでもアルスは思った。自分を含めて、仲間たちの銃の弾がすべて切れていて良かった、と。
 撃ったのは自分ではない。
 いや……だいたい彼女は誰かに撃たれたのか?
 ぴかっと、雷光がほとばしった。
 空が真っ二つになるかと思った。
 そして……どどーんという大きな音と地響き。
 これは大きいな、と、別段雷が苦手なわけではないけれど、心なしか不安になるような落雷に、三人が雨空に目をやっていたとき。
「……東のほうに落ちた?」
 彼女が呟いた。
 驚いて三人がぎょっと注目する目の前で、彼女はゆるりと瞼を持ち上げた。
「今、何時かな?」
 呟いて、雷光閃く空をちらりと見上げる。
「わからないよ。この天気じゃ」
「そうね……でも、まだ日没前ね」
 アルスの返事に頷き返すと、彼女はよいしょ、と身体を起こした。
 が、手を額に当て目を閉じる。
「大丈夫か? どうしたんだ?」
 そんな彼女の背に手を添え顔を覗き込むと、ちら、と彼女がアルスを見た。
「優しいね、アルスは。わたし、今は敵兵のようだけれど?」
 わざとらしく彼女の視線がアルスの軍服の上を往復し、そして再びアルスと目を合わせると、にやりと笑った。
「わ、わかってるよ」
 バツが悪くアルスが手を引っ込めると、彼女はくすくす笑った。
「まあ、こんなところでわたしとあなたが争っても、なんの解決にも発展にもならないけどね」
 そうやって笑う彼女はアルスの知っている彼女で、軍服を着ているのははじめて見たけれど、それだけだった。
 でも。
「ふざけるなっ!」
 ケイディアが、怒鳴った。
 ナルサスがゆらりと顔を上げて、彼を見上げた。
「テュルクの人間、しかも軍服着てるようなヤツに、遠慮はいらねえ!」
「ちょ……!」
 慌てたのは、でも、アルスだけだった。
 僚友を止めようと手を伸ばした目の前で、アルスより背の高いケイディアの身体が……浮いた。
 え、と思った次の瞬間には、少々癖の強い赤毛が、アルスたちの前に投げ出されていた。
「い……ってぇ……!」
 呻き声にはっとする。ケイディアが倒れている。まるで足を滑らせて転んだような感じだ。
 けれどケイディアは痛みの表情を一瞬で怒りに変え、ぎりっと背後に視線を送ると飛び起きようとした。
「い……っ!」
 痛い、という言葉が、喉の奥で鳴った。
 アルスと、クルールが腰を浮かせただけの間に、ケイディアはうつ伏せに倒され腕をひねり上げられてしまったことになる。
 ふたりは呆然とケイディアの顔から視線を上げた。
 同僚の背中に乗るような感じで、テュルクの軍服に身を包んだ青い髪の女の子が……額を押さえていた。
「……頭、痛い……」
 それは、ケイディアとか、アルスとかに対する意見感想ではなく、どうやらさっき起き上がったときの続きらしかった。
「あの……ナルサス?」
 アルスが恐る恐る彼女の名を呼ぶと、ゆるり、と銀の双眸がアルスを見た。
「うん?」
 なあに、とでも言いたげな表情にアルスのほうが頭を抱える。
「えっと、君さ」
 アルスが視線でケイディアを示すと、彼女はちらっと自らが押さえ込んだ敵兵に視線をやった。
「うん。だって、敵でしょ?」
「それはそうだけど」
「手を抜く必要はないでしょ? 黙ってやられなくちゃならない理由もないし。今のは卑怯なことしてないはずだし。ね、赤毛くん?」
 彼女の言うことは尤もで、アルスに首の突っ込めることではないことぐらい、自分だってちゃんとわかってはいるのだけれど。
「えーっと。それで、ナルサス。どうすればその手を離してくれるのかな」
「そりゃ、わたしに危害を加えないと約束してくれたら。和解はしなくてもいいけど、一時休戦くらいで、どう?」
 どうやら後半は、ケイディアに直接言ったらしい。
 口調は軽いが、その間幾度となくナルサスは顔をしかめたり額を押さえたりしている。
「そうだな、そうしよう、ケイディア」
「ふざけんな! テュルクの女なんか信用できるか!」
「うーん、そうよね、無理よね。じゃあ、やっぱり殺そうか」
 さらっと言った言葉があまりにもなんでもなくて。
 だから、彼女が懐から取り出した拳銃をケイディアの頭に突きつけるのを目にするまで、アルスは意味がわからなかった。
「待ってください!」
 先に叫んだのはクルールだった。
 それでやっとわれに返ったアルスは面倒くさそうに手を止めたナルサスを見た。
 彼女はクルールを見返して続きを待っているようだった。
「一時休戦に、僕も賛成です。ケイディアは僕たちが説得しますから、銃を引いてください」
「そう?」
 と、答えたナルサスは、でも、銃を引きはしなかった。
 代わりに銃口でこん、とケイディアの頭を突いた。
「でも、テュルクの軍人なんて信用できないわよね? イエニィの軍人は、信頼できるのかしら?」
「てめー!」
 ケイディアがじたばたと暴れるが、小さな彼女が乗っているだけだというのに、ケイディアは身動きが取れないらしい。
「そんなに暴れないでよ。思わずトリガー引きそうになっちゃうでしょ」
「……ナルサス」
 アルスはやっと、立ち上がって、数歩先の彼女に手を伸ばした。
 伸ばした手で彼女の手ごと、拳銃を包み込んだ。
「そんなことするな」
「あら。でも、わたし、テュルクの軍人よ」
「知ってる。でも……お願いだからさ、俺の前で人を殺すとか、言うなよ」
 アルスの手が、彼女の手をケイディアから遠ざける。
 彼女は、それに抵抗したりはしなかった。
「アルスは、優しいね」
 ぽつんと言った。
 アルスは首を振った。
「そんなことないよ」
 ナルサスも、首を振った。
 でも、それ以上はなにも言わなかった。
 アルスが彼女を引っ張ると、ナルサスはケイディアの上から立ち上がった。
 クルールが警戒したのか、起き上がったケイディアを後ろから掴んでいる。
「一時休戦だ。無駄に消耗しても仕方ないだろ」
 アルスが宣言するように言えば、ケイディアは納得できない顔でぷいっとそっぽを向いた。
 が、言い返さなかったのが、一応承諾のしるしなんだろう。
 アルスはナルサスを背中に庇って……いたつもりが、彼女はふいっと歩き出した。
「ナルサス?」
 慌てて振り返ると、彼女は建物の入り口らしき場所で、なにかいじり始めた。
 アルスが近寄って覗き込むが、何をしているのかわからない。
 機械があって、どうやら数字を入力して……。
 ぴっという音と、光と、そしてがっちゃんという音。
「中に、入りましょう。わたし、休みたいのよ」
 彼女の言葉通り、その扉は開いて、ナルサスはひとりですたすたと建物の中へと入って行った。
 アルスは……躊躇した。
 ここは、テュルクの軍施設なのか?
 自分たちが入っても、危害はないだろうか。
 そう思ったのはもちろんクルールやケイディアも同じで、誰もそこから動こうとはしなかった。
 そのときまた、雷光が走り、地響きを伴って雷が……落ちた。
 こんなに荒れた天気だと、ふと、故郷が心配になる。
 さっきより雨足は強くなっているようだけれど、川は氾濫してないだろうか、とか。
「くっそ。この雨、この辺だけか? イエニィも降ってんのか?」
「……どうでしょう。ちょっと心配ですね」
 空を見上げて同じことを思う同胞たち。
 そこへ。
「アルス? 入ってこないの? 雨が降ってるんだから入らないと風邪引くわよ?」
 奥から彼女の声が届く。
 ふと建物の中を見れば、奥のほうで明かりが灯ったらしい。
「え、ああ……」
 それでもなお躊躇していると、ひょいっとナルサスの顔が覗いた。
「アルスもお仲間もどうぞ。ここには誰もいないし、トラップもないわよ」
 言い残して彼女はまた、奥へと引っ込んでいく。
 そしてなにやら音がする。
「……いつまでも、ここにいても仕方ないですよね」
「ああ。えっと、ほら、中で彼女を見張ってるほうがいいんじゃないのか?」
「そうですね。それに、食料とか武器とか、奪えるものがあったらいいですね」
 相談しているようで、単にケイディアを説得しているのだということは、当のケイディアにも充分伝わっている。
 苛々した様子だったが、ちくしょう、と吐き出した。
「わーったよ、入りゃいいんだろ!」
 喚くケイディアを前後ではさんで、アルスたち三人は、そのテュルクの建物に足を踏み入れた。