外見と同じで、中も白い壁がまっすぐ続いていた。
恐る恐る進みながら、前方の明かりが漏れている部屋を目指す。
彼女がそこにいるのは間違いなさそうで、中からなにやら音がする。
先頭を歩いてきたアルスがそーっと中を覗くと、相変わらず真っ白な壁の部屋の中で、彼女が動いている気配はなかった。
けれど部屋のどこかからは……なんというか、表現しがたい音がし続けている。
言うならば……ぽこぽこ、だろうか。
そうだ、源泉から水が湧き出ている音に似ている。
ではこれはどこかで水が流れている音だろうか。
「あ、来たわね」
彼女の声がしたので、そちらに目を向けて、アルスは彼女を発見した。
「な……ナルサス!」
驚いて、思わず駆け寄る。
彼女は大きな二人がけの椅子に横たわっていた。
「君、大丈夫なのか」
「んー。たぶんね。あ、お湯沸いたみたいね」
むくりと起き上がって机に向かう。
お湯? と思っていたら、机の上にあった丸いフォルムの瓶……についているスイッチを押した。
アルスと、それからまだ部屋の扉の向こうでこちらを窺っているふたりにに目をやって、彼女はひょいっと肩をすくめた。
「なんだか凄く警戒されているわね」
「それは……君に、というよりは、この場所に、だよ」
アルスは素直に白状する。
テュルクのいう「近代的な」施設というのは、「発展途上の」イエニィ育ちの自分たちにはさっぱりわからない。
「場所?」
「ああ……ほら、たとえば今君が持ってるそれとか。なんだい、それ?」
「これ? 湯沸かし器よ?」
湯沸かし? と思わずまじまじと見たのはまたもアルスだけではなかった。
「ええっと。こっちは湯飲み」
「それくらいわかるわっ! 舐めるなっ!」
ナルサスがもう片手に持っていたものを掲げて言うと、ケイディアが怒った。
「そう? でもこれは湯飲みじゃなくて、マグカップっていうのよ」
「……はん?」
彼女の言うことがいまひとつよくわからず、ケイディアも怒鳴ったままの顔で唸っている。
「これは自動電気湯沸かし器。要するに薬缶よ。水を入れて、スイッチを押すと、火じゃなくて電気の熱でお湯を沸かすの。で、設定してある温度になったら、自動的に電気が切れるの。便利でしょ?」
「へえ」
クルールが感心したように頷いた。
それに満足したのか、ナルサスがにこりと笑った。
「水道はあっち。手を洗っていらっしゃいな。お茶を淹れるわ。と、言っても、残念ながら葉っぱものはないからインスタントコーヒーしかないみたいだけれど」
「インスタントコーヒー?」
彼女の口にする異国の言葉に興味を持ったのかクルールが部屋に入ってきて訊ねる。
「ええ。あら? コーヒーは……知ってる、わよね?」
「はい。コーヒー豆から抽出する飲み物ですよね? 同じもののこと、言ってるかな?」
「黒っぽい液体で、ちょっと苦いの」
「ああ、そうです!」
傍目にはまるで意気投合したようにふたりは話を進める。
「そう。お湯さえ加えればいつでも同じ味のコーヒーになるように加工されたもの、でいいかな。豆から淹れるより簡単で、誰でも出来て、えっと、そうね、携帯にも便利ね。前線でも兵士が愛飲しているわ」
「へえ!」
そして彼女が、なにやら缶を取り出してクルールに説明しながら匙でコーヒー豆の色をした粉を……なんだったっけ、そう、マグカップ四つに入れていく。
「……て、おい! そんな怪しげなもん!」
ケイディアがぎょっとしたような顔で部屋に入ってきたが、クルールはカップを覗き込んでいい香りですね、と言っている。
「ちょっと顔離して。お湯がはねるわよ」
「あ、はい」
素直に顔を離して、子どもが母親の作業を見ているように、ナルサスがカップにお湯を注ぐのを見ている。
アルスからも、お湯が注がれ湯気が上がり、そしてコーヒーの香りが漂ってくるのはわかった。
「うわ、本当だ。コーヒーですね、まるで」
「まるでじゃなくって……。まあ、インスタントってある意味偽物なのかしら? あなたたちはいつもコーヒー豆を挽くところから淹れるの、金髪くん?」
「ええ、そうですね。高級品なんですよ。嗜好品っていうか。見栄をはりたいお客さんが来たときとか」
クルールが茶目っ気をだして言うと、ナルサスもくすっと笑った。
「あら、それなら一緒ね。わたしたちもそういうときは、ちゃんとドリップするわ」
くすくす笑う。
普通どおりの彼女に見える。
けれど。
「あ、駄目よ、金髪くん。手を洗ってから」
「えっ? わ、わかりましたー」
すっかり仲良く見える二人だけれど……。
「ナルサス」
アルスは声をかけた。
彼女はふわんと振り返る。
「君、だいぶ調子悪いみたいだけど、大丈夫か?」
微笑んでいた彼女の顔がそのまま固まった。
アルスは大真面目な顔で彼女を睨むように見つめる。
「……アルスは、優しいね」
そしてナルサスはまたそう言って、固まっていた顔を緩めた。
「だってそんなに冷や汗かいてるじゃないか」
「あら? 見つかっちゃった?」
にこっと笑ってなんでもない顔をするが、だいたいこの部屋に入ってきたとき、彼女はあのふかふかの大きなベッドみたいな椅子で横になっていたではないか。
「石鹸も使わせてもらいましたよ」
クルールが、言われたとおり手を洗ってきたようだ。軍服の袖を腕まくりしている。
「石鹸で手を洗うなんていつもは普通のことなのに、すごく気持ちよかった」
「あら、前線に出て長いの?」
「長いというほどではないですけど、ここ数日ろくに手も洗えませんでした」
「それはご愁傷様」
ナルサスは冗談のように言う。が、冗談ではなかったのだ。
前線の、しかも負けているほうの兵士なんて、生と死の境界線を踏み越えるのもあっという間だ。
生きているからそんな冗談にもなるけれど、数時間前まではクルールもアルスもケイディアも、自分たちの未来は見えなかった。
いや、それは今もか。
「……ふざけんな……!」
獣の唸り声のように、ケイディアが呟いた。
ナルサスがちらっと彼を見やる。
「てめーらが……テュルクの連中が攻め込んでくるから! だから俺たちはこんな目にあってんだろうが!」
ケイディアの怒りは、尤もだ。
でも。
「なら受けて立たずに素直に降伏しちゃえば? そうすれば内乱はすぐに収まるわよ」
「それこそふざけんなだ!」
「それなら仕方ないわね。嫌だというならその矜持にかけて踏ん張りなさいな」
「……てめーなんぞに言われなくても!」
「もういいよ」
ケイディアの言うことも、ナルサスの言うことも、たぶんどちらの主張も間違っていなくて、ここで言い合っていても解決なんかしないから。
アルスはどこか投げやりに割り込んだ。
ナルサスはすっとケイディアから視線を逸らし、机のそばに立っているクルールににこっと笑いかけた。
「あら、どうぞ。座って。えーっと、食事は?」
彼女が考えるように壁のほうを向いたのに、クルールが言葉を選んで返事をする。
「実は今朝からなにも食べていません。僕も、ケイディアも」
「あらあら。とは言え、聞いておきながらなんだけど、ここに食べ物あるのかしら? パンの缶詰とかありそうだけど」
そして壁だと思ったところをひっぱって、開けた。
驚いたことに、壁にそのまま棚が埋まっているようなつくりなのだ。
だからここには家具らしい家具があまりないのかもしれない。
ということは、白い壁のどこになにが埋め込まれているかわからない、ということでもある。
「パンの……缶詰、ですか?」
疑問に思ったのはたぶん三人ともだけれど、思わず呟いたのはクルールだった。
「ええ、そうよ。保存用にあると思うんだけど……あ、これだわ」
ごそごそやっていた彼女が、缶詰を取り出した。
「えー、賞味期限は、と。うん、大丈夫」
なんだかよくわからないことを確認した彼女は、それを机の上で、開けた。
なんだか取っ手のようなものが付いていて、缶だというのに彼女が指で引っ張っただけで、刃物で切ったように蓋が開いてしまった。
驚いていると、さらにその中からぺしゃんこのパンが現れ……と、思ったらあっというまにふわふわになる。
「な、なんですか、これ?」
目の前でそれを目撃したクルールがおそるおそる覗き込む。
「パンの缶詰。見たのは初めて?」
「……はい」
「パンをね、真空保存してあるの。だから空気に触れるとこうしてふわふわに戻るのよ。ちょっと面白いわよね」
「……はあ」
「あー、おなかすいた。あまりないけど、どうぞ食べて」
言いながら彼女は椅子に座り、自分で開けたその缶詰に入っていたパンとコーヒーを引き寄せた。
確かに……簡単だ。
これなら戦場でも食事ができる。
「これ、僕が開けてみてもいいですか?」
クルールが缶詰を指差したら、彼女は無造作に頷いた。
「ええどうぞ。チャレンジャーだね、君は。名前はなんていうの、金髪くん?」
「僕は……クルールといいます。えいっ」
かぽんっと音がして、缶が開いて、もくもくとパンが出てきた。確かにちょっと、面白い。
パンとコーヒーで、まるでのどかな朝食のようにナルサスが食事を始める。
それを少し見てから、クルールもパンをちぎってみる。
「おい、クルール! そんなモン食うな! 危ねえぞ!」
「うーん、赤毛くんは警戒心が強いなあ。なんだか野犬みたい」
「てめっ! 人のこと野良犬呼ばわりすんな! そういうてめーらはテュルクの飼い犬だろうが!」
「あ、そうだね。うん、それは事実だ」
うんうん、と納得しながら彼女はコーヒーの入ったマグカップを持とうとして、手元をふらつかせた。
ぽん、とアルスが彼女の肩に手を置いた。
ちらっと彼女が振り返る。
「駄目だよ。バレてるって」
「……」
「薬とかあるのか? 寝ていたほうがいいんじゃないのか?」
「大丈夫だよ」
「どこが」
アルスがなにを気にしているのか、クルールとケイディアにはよくわからないらしく、少し怪訝な顔でこちらの会話を聞いている。
そんな周囲には気をとめず、彼女はぱくぱくと食事を続ける。
コーヒーの香りと、パンの匂い。
アルスだっておなかはすいているのだけれど。
「大丈夫。薬はあるから。空腹じゃ薬、飲めないでしょ」
「……」
「アルスも手とか洗って、これ食べたら? それとも食事よりシャワーがいいとか言うのかしら?」
「言わないよ」
アルスの視線の先で、彼女はひたすら手を動かし、食事を進め、そしてパンとコーヒーを平らげてしまった。
ご馳走さま、とひとりで挨拶して椅子から立ち上がると、アルスに向き合いポケットからそれを出して見せた。
「ほら、これが薬」
白っぽい入れ物を振ってみせる。からからと複数のものが入っている音がする。
「だから大丈夫だよ」
そしてまたにこっと笑ってみせる。
この笑顔に人は騙されるんだ。
でもどうせなら、自分も騙されたい。
あの薬を飲み続けないといけない彼女のことを知らなかったら、大丈夫と言う言葉を鵜呑みに出来たら。
「アルスは、優しいね」
何度目かのその台詞を言って、ナルサスは手を伸ばし、アルスの軍服の裾をくいくいっと引っ張った。
なんだ、と思って少しかがむようにして彼女の顔を覗き込む。
ナルサスが、くっと顔を上げて背伸びをするので、なにか耳打ちされるのかと思って顔を寄せると。
「そういうところ、わたしは好きだよ」
耳ではなく、口元に、彼女の唇が触れた。
「…………へ?」
「アルス、顔も洗ったほうがいいんじゃない?」
言い残して、軽やかにナルサスは身を翻した。