薬を飲んだナルサスは、三人がいるところへ戻ってくると、いくつか告げてそのまま……倒れてしまった。
「な、なんだ、この女……?」
床に崩れた彼女をアルスが抱き上げようとしていると、ケイディアがやっと近づいてきて彼女を覗いた。
「……聞きたい?」
「はん?」
アルスは抱き上げたものの、この建物の中で寝床になる部屋を知らず、かといって自分たちだけで探索するにはやや不安で、結局彼女は部屋にあったあの二人がけの大きな椅子に横たわらせた。
かけてやる毛布もなくて迷っていると、クルールがそうだ、と立ち上がって奥へと消えていく。
ごとごとと音がして、それからクルールが手に大きなタオルを持って出てきた。
「お風呂場があるなら、タオルがあるかと思ったんです」
それは身体を拭く用なのか、もっと別のものなのかわからないけれど、とにかく大きかった。
真っ白くて、さわった感じはふわふわで、変な匂いもしないし、布団代わりにしても大丈夫のようだ。
広げてかけてやると、大きさは充分だった。
「それで、聞きたいか、とわざわざ言ったアルスの言葉の意味を教えてもらえますか?」
クルールは、彼女にタオルをかけるのを手伝ってから、アルスを見据えた。
「ただのテュルクの軍人じゃないってことですか?」
「まあね。だって、テュルク人だったら、俺が知り合いなはず、ないじゃないか」
アルスは彼女から目を逸らすと、机のほうを向き直った。
もう冷めてしまったのか湯気の上がっていないコーヒーがある。
手を伸ばして口をつければ、ほんのり暖かくて苦い液体が口の中に広がった。
ふうっと息を吐いた。
それから椅子に座って、パンの缶詰とやらを覗き込む。
なるほど、指を引っ掛ける突起がある。これを?
「あ、こっち側に引っ張るんです」
「こっち? よっ……ああ、開いた」
そしてもこもことしたパンが現れる。早速ちぎって口に入れると、空腹にはこの上ない美味に感じられた。
「おい、おまえら……!」
「味は悪くない。おまえも食べとけよ。ここから、帰るんだろう?」
アルスの言葉にケイディアは悔しそうな顔をして、それから、憤然と椅子に座った。
クルールが指示するとおりに同様に缶を開けると、ケイディアはアルスに負けない早さでパンを食べはじめる。
「なんだよ、おなかすいてんじゃん」
「あったりめーだ! 俺たちは朝からずっと逃げてきたんだからよ!」
「……そうか」
ケイディアもクルールも、荷物は弾のない銃だけで、背嚢ひとつ持っていなかった。
文字通り、命からがらだったわけだ。
「ということは、別に、予定通りだったんじゃないか」
「はあ? どういう意味だ」
「水も食料もなくってどうやって生き延びるつもりだったんだよ。敵の駐屯地を襲うくらいしか、手立てがなかったんだろ」
「……けっ」
その返事が肯定を意味することくらい、誰もがわかっていた。
しばらく無言でパンとコーヒーを口に運んだ。
はじめに食べ終えたクルールが、あのなんと言ったか、自動で湯が沸くという薬缶を振ったりボタンを押したりしている。
するとぱかっと天辺の蓋の部分が自動で開いた。
「うわっ! びっくりした」
蓋が開くと中から湯気がもうもうと上がる。
「あまり冷めてないんだ。でもお湯は少ないですね。水、足してきます」
「おいおい」
なにをやってるんだ、と目で訴えながらカップに手を伸ばしたケイディアは、けれど自分のコーヒーがなくなっていることに気づいて舌打ちした。
「えっと。ここに乗せて、スイッチを入れるんでしたっけ?」
「……わからないよ。でも、お湯が沸いたと言ってたときは、そこにあったよな」
「うーん? どうかな? こっち? あ、はまった!」
クルールが興味深そうにスイッチを押すと、そこに赤い電気の光が点った。
アルスはカップの底のコーヒーを全部喉に流し込んだ。
「これで待ってればいいんでしょうか?」
「わからないって」
苦笑しながらそれを見守る。
同様に見つめていたクルールは、今度は立ち上がって瓶を持ってきた。
そして中の黒っぽい粉を、空になった三人のカップに匙に山盛り一杯ずつ入れていく。
「こんな感じでしたよね?」
「うーん、たぶん」
瓶の蓋をぎゅっぎゅっと閉めて、クルールが椅子に戻ってきた。
「それで、彼女は一体何者なんですか?」
いきなり、さらりと本題を口にした。
ケイディアが一瞬驚いた顔でクルールを見て、それからアルスを睨むように見た。
「ああ、今は、テュルクの軍人みたいだね」
「そんなこたぁ、見りゃわかる!」
「でもテュルク人じゃないって言いましたよね」
ごぽっと水の中で空気が動く音がした。
ちらっと薬缶を見るが、見た目はなんの変化もない。
「……たぶんね。でも、ひょっとしたらテュルク人なのかもしれない」
「おいおい、なんだよそいつは」
苛々した様子でケイディアが吐くようにいうが、それが事実なんだからしょうがない。
「いや、何人か、ていうのは、本人もわからないそうだから。生まれたときからテュルクの訓練組織にいたそうだ」
「……ならテュルク人みたいなもんだろ」
「だからたぶんって言ったんだ。でも、彼女の髪、変わった色をしてるだろう?」
青い髪。
真っ青な、まるで、暑い日の空のような青色をしている。
「あんな色の髪の人間は、テュルクにはいないんだって」
「はっ! ならその変な色の髪が気持ち悪くて、親が捨てちまったんじゃねえの?」
「ケイディア!」
同僚の言い草にクルールがちょっと非難めいた視線を送るが、アルスはふうっと息を吐いた。
こぽこぽこぽ、と薬缶が鳴り始めた。
「そうかもしれない、と、ナルサスが自分で言ってたこともあるよ」
思わず、三人が沈黙した。
ケイディアは、あるいは冗談で言ったのかもしれなかった。
イエニィで子どもを捨てたり売ったりするのは、相当貧しい家の話ではあるが、ない話ではない。
「はん、そいつの出生なんてどうでもいいさ! 問題は、なんでテュルクの軍人とおまえが知り合いなのかってことだ!」
「ああ、それは」
そのとき、ぱちんっといきなり薬缶を乗せていた台の灯りが消えた。
「……これで、沸いたんでしょうか?」
「……そういうことなんだろうな」
クルールがそうっと薬缶を台から持ち上げるが、予想に反して熱くはないらしい。
傾けると、薬缶の中でこぽこぽという音がして、アルスたちが普段使う薬缶となんら変わりなくお湯が注がれた。
三つのマグカップに、新たにコーヒーが満たされる。
ふわっとよい香りが広がる。
「これは……いいですね。僕、このコーヒーの粉、欲しいです」
「はっ! なら持って帰ればいいんじゃねえの?」
どうでもよさそうに吐き捨てて、ケイディアがアルスを睨みつける。
アルスは肩をすくめた。
「おまえは知らないんだよな。俺は……テュルクの神殿にいたことがあるから」
「はあ?」
ケイディアが目を丸くした。
クルールが薬缶のお湯をマグカップに注いでいくと、コーヒーの良い香りが広がる。
「言ってましたね、アルス。自分はイエニィ人かどうかわからないって」
「そうなのか? おまえ……テュルク人なのか?」
「もしそうだったら、どうするんだ?」
アルスはいつもとかわらず静かに答えた。
本当は、自分だってわからないのだ。
確かにテュルクに自分はいたのだ。
でも、ケイディアたちと同じイエニィの教会で過ごしたのも事実だ。
もし今、自分がテュルク人だといわれたら、自分はどうしたらいいのだろう?
「…………」
ケイディアが怒ったような困ったような顔をした。
仲間が、ひょっとしたら敵かもしれない。
でもそんなことじゃ、誰が本当は敵なのか、わからなくなるではないか。
なにが敵なのか、わからなくなるではないか。
「俺も……よく、わからない」
アルスが言うと、ふん、とケイディアが視線を逸らした。
解決しようがない、問題なのだ。
「…………もし、アルスがテュルク人だったら、わたしはアルスを連れて帰りたいな」
いきなり、背後から声がした。
「ナルサス?」
アルスが振り返ると、椅子の上に横たわったままの彼女が、手で額を押さえるようにしている。
アルスは彼女に近づいて、膝を突いて顔を覗いた。
「大丈夫か?」
「うん。薬、効いてきたみたい」
「そうか。時間、遅れたのか? どうして?」
「それをそっちが言う? ここにたどり着く前にイエニィ軍にぶつかっちゃったから、避けてたんじゃないの」
「ああ、なるほど」
彼女が、時間通りに薬を飲まないといけない体質だということは、子どもの頃少し一緒にいただけだが、あの頃から変わってないようだ。
うんしょ、と彼女が起き上がるので、背中に手を回して支えてやる。
「ありがと。ねえ、一緒にテュルクに帰る気はない?」
「ナルサス……この状況でその台詞は、いくら君でも頂けない」
「そっか。やっぱりそうだよね」
うんうん、と頷いて彼女はいともあっさり引き下がった。
ケイディアは、もう怒鳴りつけてこなかった。
「シャワーは? 使ったの?」
「しゃ……? ああ、風呂のことだな。いや、まだだ。君、そんなに寝てないんだよ」
机に向かっているクルールとケイディアをちらりと見て、彼女はそう、と相槌した。
「それより君が入るか?」
「入るってお風呂に?」
「そうだろ」
とても自然な流れの会話だったとアルスは思うのだけれど、ナルサスは驚いたように目を丸くした。
そしてアルスを見返して、クルールとケイディアのほうをもういちど見回した。
それからにやっと笑ってみせた。
そういうふうに笑うのは、わざとだ、って。
アルスは知っているけれど。
「やめておくわ。敵兵がそばにいるのに、優雅なバスタイムをゆっくり堪能は出来そうにないから」
うふふ、なんて笑いながら言う。
そんな冗談に、クルールは苦笑して、ケイディアはイラついたように彼女を睨みつけたが、アルスは溜め息をついた。
「別に、誰がそばにいようと基本的に信用してないくせに」
彼女は、そういう人なのだ。
ここがテュルクの軍施設で、周囲にいるのがテュルクの軍人ばかりだったとしても、やはり同じような冗談を飛ばしていたに違いない。
笑っているけれど、あれは警戒しているんだ。
信用していないんだ。
「うーん、アルス、それはだいたいあってるけど、ちょっとだけ違うわよ」
「なにが」
あくびれもせず彼女はアルスを覗き込む。
「信用している人だっているわよ」
彼女の言わんとしていることなんて、容易く想像できてまた溜め息をついた。
「俺のことを信用しているっていうのか」
「なあにそれ。疑ってるの? 決まってるじゃない」
そしてナルサスは高々と宣言するように、言った。
「わたしは誰も信用してないけれど、アルスとトリグルだけは信用しているの」
だけは、のところをやたらと強調して、言い切った。
アルスは……息を吸い込んで、とめて、少し間をおいて大きく吐き出した。
記憶に残るかぎり彼女と常に一緒にいた男の名を耳にして、アルスは少しだけ動揺した。
そうだな、自分だけではないな、と思った。
自分などよりずっと、彼女には頼りになる理解者がいたのだ。
当たり前か。
自分は、さっさとあの神殿から出てしまったのだから。
「……そうか」
苦い笑みを浮かべて、アルスは立ち上がる。
「じゃあ俺は、風呂を……えっと、シャワーを使わせてもらうよ」
「そうね。それがいいわ」
アルスの動揺に気づいているのかいないのか、ナルサスもぴょこっと立ち上がる。
そして率先して歩き出す。
「知らないでしょ、たぶん、シャワーの使い方」
「あ、ああ……」
それもそうだ、と思って追いかける。
たとえ生まれがテュルクだったとしても、やっぱり自分はテュルク人ではないな、とアルスは思った。
だって、そんな機械とか、自分にはさっぱりわからない。
一緒に追いかけてくるクルールと同じ、イエニィ人ならいいな、となんとなく思った。