朝なんだ、ということがわかるくらいには、明かるい朝だった。
 外から見たのを同じくどれも同じ形大きさをした窓から外を見ると、ところどころに大きな水溜りがあって、昨夜の嵐の名残を残している。
 思いのほか寝心地の良い寝床にありつけた昨夜だけれど、今日はなんとしても味方の駐屯地に戻りたい。
 もちろん仲間二人とともに、だ。
 アルスは薄汚れたままのイエニィの軍服に袖を通し、部屋を出た。
 すると、部屋の目の前で、イエニィの仲間二人と鉢合わせた。
「あ、おはようございます」
 ぺこっと軽く会釈をしてクルールが先に通り過ぎる。
「ああ、おはよう、クルール、ケイディア」
 アルスも挨拶して彼の後を追うと、ケイディアがアルスの出てきた部屋のドアをちらちらと見やった。
「……ケイディア? どうかしたのか?」
「あ? あの女は一緒じゃないのか?」
 ケイディアは、声を落として訊ねてきた。
 彼女と、一緒? なぜ?
 と、思ったところで、同僚の言うことの意味を察して、アルスは音がしそうな勢いで赤くなった。
「な、なに言ってるんだ、おまえ!?」
「てめーこそなに赤くなってやがる。そういう意味じゃなかったのかよ」
「はあっ? そういう意味って?」
 なんのことだかわからずアルスがわたわたするも、ちらっとこちらを伺うように見たクルールの遠慮がちな視線が、ケイディアの呆れたような目と同じことを意味するのだということくらいは、理解した。
「俺らを二人残して、自分は女と出て行けば、こっちはそういう意味だと思うだろうが」
 当たり前だ、とばかりに言われるのを、アルスは懸命に思い出そうとする。
 二人を残して? ああ、昨夜二人を寝室に案内したときのことか。
 確かにそのあと自分はナルサスとふたり部屋を出たが。
「……だからってなんで俺と彼女が一緒だと思うんだよ」
「思うって。そのまえ散々くっついてたくせに」
「そ、そんなことはないだろっ」
 あたふたと弁明しながら昨日、ここへ来て最初に入ったあの部屋に足を踏み入れれば、そこにはすでにテュルクの軍服姿の彼女がいた。
「あ、おはよう、アルス。それにお友だちくんたち」
 ちらっと振り返って笑顔でそれだけ言うと、また彼女は向こうを向いてがさごそとやっている。
「ああ、おはよう、ナルサス。なにをしてるんだ、君は?」
 アルスがその背中に近寄れば、彼女の手元には深緑色の背嚢が口をあけていた。
「のんきなこと言ってないで。もうすぐテュルク軍からわたしの迎えがくるから、あなたたちはちゃんと隠れててね」
 確かにそれは軍用の非常用道具だ。
「迎え?」
「そうよ。だってわたし、迷子だもの」
「……そうなのか?」
 それはつまり、自分たちと同じということか?
 確かにここには、イエニィもテュルクも近くに軍がいない。
 ということは、彼女はなんらかの方法で、テュルク軍に連絡を取ったのか?
「あなたたちだって迷子でしょ。はい、これ」
 なにかを詰め込んでいたナルサスが、背嚢の口を縛ってアルスに突き出した。
 思わず受け取ると彼女は次の袋にものを詰めていく。
「はい、って……」
「わたしは迎えがくるって言ったでしょ。あなたたちに迎えが来るの?」
 アルスを振り返りもせずに、彼女はてきぱきと手を動かし続ける。
「そんなものは……ありえないな」
「なら、自力で帰るしかないんでしょ」
「そうだな」
 そして彼女が背嚢の口を縛る。
 くるっと振り返るとそれを放り投げた。
「はい、クルールくん!」
 手元に飛んできたので、クルールが咄嗟に受け取る。
 そしてまた、彼女は袋詰めをはじめる。
「わたしがここを離れた後で、あなたたちだけ野垂れ死んだら、後味悪いのよね」
「……」
 あんまりな言い方に、でもありえなくもない、と思ってアルスは言い返せない。
 立ちすくんでいると彼女の手は三つ目の背嚢を縛った。
「それから、はい、ケイディアくん」
 ケイディアは自己紹介したわけではないが、アルスとクルールが彼の名を呼ぶから、彼女はその名前を覚えていた。
 けれど呼んだのはこれが最初だった。
 そしてきっと、これが最後だろう。
 突き出されたそれを、けれどケイディアは受け取ろうとはしないで、彼女を睨みつけた。
「敵からの施しを受けるつもりはねえよ!」
「なに言ってるのよ、赤毛くん」
 呆れたような、どこか馬鹿にしたような顔でナルサスが背嚢をゆらゆら揺らす。
「イエニィの駐屯地はここから南西へ一日半のところよ。水も食料も、弾薬も持たなくて、どうやってそこまで帰り着くつもり?」
 さらっと告げられた内容に、三人がはっと目を瞠る。
「な、ナルサス、それは……」
 イエニィの駐屯地の場所まで、彼女は知っているのか?
「あら? 知らなかったの? いやあねえ」
 にやりと笑って誤魔化すが、彼女はわざとその場所を教えてくれたのだ。
 えいっと彼女が用意した背嚢をケイディアに投げつける。
 仕方なくケイディアが受け取るのを確認もせずに、彼女はすたすたと部屋の外へ出て行く。
 アルスは仲間たちと視線を交わして、それから急いで彼女を追った。
 クルールと、その後ろを距離を置いてケイディアも続く。
 部屋の外のそんなところに収納場所が、というところを彼女は開けて、中から弾薬を取り出していた。
「アルス、これ、あなたのライフルに合う?」
「……ライフル?」
「ほら、小銃よ。肩からかけてるほうの銃」
 彼女が差し出す弾倉を見て、受け取る前に眉をひそめた。
「なんだか小さいな」
「小さい? そうなの? じゃあ……こっちは?」
 アルスの反応に手が引っ込み、かわりのものをもってすぐに差し出される。
 今度のは見慣れたものに似ている、と思った。
 受け取ると、クルールが持ってきた小銃にはめ込んでみる。
「よさそうね」
 彼女が頷いて、その弾倉を抱えるほど取り出した。
「ほら、弾薬は必要でしょ? 途中で切れたら敵から奪い取るでしょ? 問題ないじゃない、これはテュルクの備蓄よ?」
 煽るような口調に機嫌の悪そうなケイディアが鼻を鳴らしてそれをひったくった。
 自分の小銃と、そして軍服のベルトに装備する。
「オーケー、なんとかなりそう?」
「ナルサス……」
「大丈夫だって。なんとでもなるわよ」
 心配しないで、と笑顔を向ける彼女がなにを考えているのか、アルスにはわからない。
「テュルクの女、てめー、なにを企んでやがる?」
 ケイディアが銃弾を補充した小銃を、……ナルサスに向けた。
「別に」
 けれどそんな銃口なんて見えていないように、彼女は微笑む。
「言っておくけどふたりはおまけだから」
「おまけ、ですか?」
 クルールが慎重に訊ね返すと、ええ、と彼女は頷いた。
「わたしが救いたいのは、アルスだけだから」
 きっぱりと言い切られて、まるで当然のように言い切られて、アルスはちょっぴり絶句した。
「なんでテュルク人がイエニィ人のアルスを救いたいなんていうんだよ」
 出身なんてわからない、という話をしたのは昨夜だ。
 それを忘れたようにケイディアが彼女に問うた。
「別にどこの人間かなんてわたしには関係ないわ。わたしはアルスを助けようと思っただけよ?」
「だからなんでと言ってるんだ!」
「そんなの決まってるじゃない。わたしがアルスを好きだからよ」
 これもまた当然と言い切られて、アルスは、今度もまた絶句した。
 いや、そういうまっすぐなところも知っているし。
 そういうナルサスが、自分も……好きだけど。
「はあん?」
 馬鹿にして見下ろすケイディアに、彼女は逆ににやりと笑ってみせた。
「あなたってば実はお邪魔虫だったわけよ。わかる?」
「はっ! 俺がいようといまいと、昨夜はお楽しみだったんじゃねえのか」
「なにそれ? そういうことになってるの?」
 きょとんとしたナルサスに、アルスは慌てて割り込んだ。
 それは、ケイディアが言ってるだけだから!
 でも彼女はあまり気にした様子はなかった。
「でも残念。アルスはわたしには付き合ってくれないんだよね」
 アルスを見て、彼女はぱっちんと片目をつぶって、くすくす笑う。
 なんだかわけがわからなくて、アルスはひとりでどっきん、と跳ね上がる。
「そっちじゃなくってねえ。あなたたちがいなかったら、アルスがなんと言おうと無理やり連れ帰る、なーんてのもいいかなーって」
「ナルサス!」
「思うくらいはいいじゃない。無理なのはわかってるから、ね?」
 どこまで本気なのかわからないが、彼女は楽しそうにそんなことを言う。
 自分を、連れて帰る、なんて。
 自分に、帰る場所が、あるなんて。
「待ってるのは、本当なんだから」
 ふっと。
 一瞬、ひどく真面目な目をして、ナルサスが呟いた。
 え、と。
 アルスが目を瞠ったところで、彼女はふいっと顔を背けた。
「……なんて無駄話をしていたら、そろそろ時間だわ」
 三人に荷物を全部持つように言うと、彼女は入ってきた玄関とは別の方向へ三人を誘導する。
「わたしが出たら、この建物のロックがかかるから、そうしたら出られなくなっちゃうのよ。ここから外へ出て、わたしと迎えの部隊が離れるまで隠れててね」
 そういって裏口のようなところから押し出された。
 外は、何もないところだった。
 白い壁がまっすぐに伸び、同じ大きさの窓が等間隔に並んでいる。
 三人が外へ出たところで、ナルサスがアルスの袖を引っ張った。
「……なんだ?」
 振り返ると、彼女はアルスの首に抱きついてきた。
「な、ナルサス?」
「元気でね。またね。口では散々言ってるけど、トリグルもアルスのこと、心配してるわ。本当だから」
 耳元で早口にそう告げると、アルスの唇の端のほうに口付けて、腕を解いた。
「じゃあね、ご武運を!」
 目を合わせて微笑むと、ナルサスは振り切るようにぴしゃりと扉を閉ざした。
 アルスは、呆然としていた。
 その扉が開くことは二度となかったし、彼女の姿を見たのはそれが最後になった。
「……なんだ? あの女、おまえに惚れてんのか?」
 ケイディアがかなり怪訝そうに言ったが、アルスに答えなんてわからなかった。
 でもたぶん、それは違うんだと思う。
 ナルサスにはトリグルがいる。
 なら……自分は彼女にとってなんなんだろう。
 一時期ともに過ごした、幼馴染み?
 つらい思い出を共有する、仲間?
 それは正しい。
 だから今でも、こんなふうにいきなり敵の軍服を着た彼女に出会っても、アルスは混乱しても敵とは思えないのだ。
 彼女だって少なからず同じようには思っているだろう。
 ……それだけだ。
 人なんてみんな孤独なんだ、と言ったのはトリグルだったか。
 だから、一緒にいたいと思うんだ、と言ったのがナルサスだったと思う。
 なのに……自分は彼女のそばからいなくなってしまった。
 自分は彼女を裏切ったのかな、と、ちらっと思った。
「南西へ一日半、か。信用していいんだろうな?」
 彼女を迎えに来たのだろう、なにもないこの場所には不似合いな大きな軍艦が、近づいてきて、去っていく。
 遠のいていくその影から、アルスは苦労して目を逸らした。
「……ああ、間違いないだろう」
 そして三人は歩き出した。
 昨日よりは、いくらかましな色をした空の下を。