ナルサスが神殿に現れたのは、とっくに陽が沈んだ後だった。
夕食は一緒にできるのかと思って待っていたのに、連絡ひとつ寄越さない。
仕方なくひとりで食事を済ませて、トリグルと彼女の部屋の間にある、バルコニーで空を見ているときだった。
「あ、トリグル、ただいま」
いたっていつも通りの彼女の声がした。
思わず振り向いて、その姿を確認して……それからぷいっと目を逸らした。
でも彼女は気にした様子はなく、当たり前のようにトリグルの隣に座った。
「予定より一日遅かったじゃないか。何をしてたんだ」
開口一番そんなことを訊ねる。
任務として出向いて行ったのはわかっている。
多少危険だということすらわかっているのに、出てくるのは労いではない。
「おかえりとか、お疲れとかは言ってくれないんだなあ」
「ふん、帰ってからどれだけ待たせてその台詞だ」
トリグルは、ずっと待っていたのに。
ナルサスのやつはなかなか帰って来なくて、いい加減待ちくたびれたのだ。
「仕方ないでしょ、軍の仕事なんだから、そっち片付けなきゃ」
「……軍のほうはすませたのか」
目の前にいる彼女は、トリグルと同じ、神殿の人間が身に纏うトーガを着ている。
「うん、終わらせたわ。だって、軍服嫌いでしょ?」
「ああ、嫌いだ。おまえが着てるのはとくに嫌いだ」
そっか、と納得したのかどうかよくわからないが、ナルサスは頷いた。
「アルスに会ったんだ」
ぽつん、というので、咄嗟になんのことかわからなかった。
が、なんだ? アルス?
「は? 会ったのか」
「うん、さすが我らが聖神殿、読みは外さないね」
今回彼女がわざわざ派遣されたのは、アルス絡みなのはもちろん知っている。
「……そうか。会ったのか」
かつてこの神殿で共に過ごした。
幼馴染み、とでも言うのか。
アルス自身には知らされていないが、彼がここにいた理由はちゃんとある。
それをいつか、彼に知らせなければならないときが、くるかもしれない。
こないかもしれない。
「うん、だからつい一晩一緒に過ごしちゃった」
「……は? な、なんだと……?」
言っている意味がわからなくて、いや、本当に一瞬わからなくて、ぽかんと幼馴染みを見下ろす。
「あら、もちろん、ベッドはべつよ?」
だから逆にナルサスがそんな冗談を口にしてから、トリグルはかーっと顔を上気させた。
あわてて彼女の言っている冗談の意味を理解する。
まったく、なにをいっているんだか、こいつは。
「あ、当たり前だろ、ばか!」
「そうだよ、当たり前なんだからそんなに焦らないでよ」
「うるさい。俺をからかうな!」
「いいじゃないの、あなたをからかえるような人間はわたしくらいしかいないんだし」
「おまえ一人いれば充分だ」
そう、彼女さえ、いてくれたら。
「アルスに、帰らない? って訊いてみたんだけど」
隣に座ったままナルサスがぽつんと言った言葉に、トリグルはすぐに首を振った。
「駄目だ」
「わかってるわよ。でも訊いてみたかったんだ」
「……で。あいつはなんて答えた?」
ちろっと隣を見下ろして訊いてみる。
ここに三人でいたころは、それなりに楽しかった。
アルスのやつは頭はいいのに、トリグルのやってる星読みのことはさっぱり理解できないところとか。
トリグルには逆にさっぱり興味のわかないチャンバラをナルサスと繰り広げ、神官にしかられたりとか。
くっだらないことでトリグルと競い合ったりとか。
小さい頃からこの性格のナルサスに散々からかわれたりとか。
こっそり遊びにいった先でナルサスが倒れてしまったのを、ふたりで必死になって担いで帰ったこととか。
三人まとめてこってり説教を食らったこととか。
まあ、なんというか、一人では到底出来ない経験をした、ということにしておこう。
「いただけないんだって」
「……」
自分と同じだけ時間の流れたアルスは、自分と同じ年の大人になっているはずだ。
ここから出て行って、遠くて、田舎だから安全だろうという理由でイエニィに預けられたのに、今ではそのイエニィまで前線が手を伸ばしている。
星読みの速さが追いつかない。
「アルスはすっかりイエニィ人だったよ」
「……それもちょっと問題だな」
トリグルは少し眉をひそめる。
聖神殿の予定では、アルスはもっと早くに戻ってくるはずだったのに。
予定を過ぎて早何年も経過している。
どれもこれも、すべてこの国の状態がまずいのがいけないのだ。
「うん。イエニィとテュルクが戦争している状態で、自分はテュルクには行けないって思ってるみたい」
「テュルク人がイエニィにいるほうが危険じゃないのか」
「だから、イエニィ人になりきっちゃってるんだって。じゃないと軍人にまでならないよ。いくら、教会育ちだからってね」
「……」
トリグルはこめかみを押さえた。
なんだかどんどん問題が増えている気がする。
不意にナルサスがくいくいっとトーガをつまんで引っ張った。
子どもっぽい仕草だが、ナルサスがトリグルを呼ぶときの癖のようなものだ。
「……なんだ?」
「あのね」
見下ろすトリグルの眼前に、ナルサスの顔が近付いてきて、ふわっと、触れた。
頬でもない、でも唇でもない。
背伸びをして、くっとあごを上げて、トリグルの口元にキスをした。
「な……なんだおまえ? 一応寂しかったりするのか?」
ナルサスが寂しがって、甘えてくるとか?
これは予想外で驚きだ。
なんだ、少しは可愛いところもあるじゃないか。
「うーん。そりゃ、もちろん会えなくて寂しかったわよ?」
「……胡散臭いな」
なんだ、違うのか、と思う。
じゃあ、なんだ?
「ね、トリグル。ちょっと立ってみてくれない?」
「はあ? なんでだ?」
「確かめたいことがあるのよ」
ナルサスが自分も立ち上がってくいくいっと引っ張るので、仕方なくトリグルが立ち上がる。
するとナルサスが両腕を首に投げかけてきた。
ふわりと抱きつかれて、また、ふわっとキスをする。
でも、わざと唇ではなく、その端にした感じだ。
「……なんだ?」
抱きついている彼女の腰にを回しながら、怪訝に思ってその顔を覗き込む。
と、彼女はやたらすっきりした顔をしていた。
「あー、やっぱり」
「だから、なにが」
「あのねえ、アルスのほうが背が高くなっちゃってるわよ」
「……は?」
身体をくっつけたまま、なので結構な至近距離で、トリグルは目を丸くした。
ナルサスが笑った。
「だって、アルスのときは、もっと背伸びしないと届かなかったもの」
そういってもう一度トリグルの口元にキスをする。
そして首に抱きついてくすくす笑う。
「……って! おまえ、なにやってるんだ!」
それは、なんだ。
今やってることと同じことを、アルスにもやったということか。
トリグルは頬を染めてナルサスを揺さぶる。
「うーん。だって会えて嬉しかったんだもの」
「だからって、おまえな!」
「あら、トリグルにはやっていいのに、アルスには駄目なの?」
「それは……!」
ナルサスの中で、いつもトリグルとアルスは平等だった。
お菓子を分けるのも、出かけるのに手をつなぐのも、平等でなければ嫌がった。
そういう性格だってことは知っているが。
「……駄目だろう」
トリグルはぽそりと呟いた。
「俺とあいつは、同じじゃない」
同じではないのだ。
自分は……トリグルとナルサスは、テュルクの聖神殿に身を寄せる星読みと軍人だ。
だがあいつは、アルスは、違う。
「……うん。そうだね」
抱きついたままのナルサスが、いや、しがみつくようにして、呟いた。
そんなこと。
ナルサスだってちゃんとわかってはいるのだ。
わかってないのは、きっとアルスだけなのだ。
ふわりとナルサスが腕を解いた。
「遅くなっちゃったね」
「おまえの帰りが遅かったんだ」
「……頑張ったんだけどなー」
ちょっと不満顔のナルサスを置いて、トリグルが先にバルコニーを出る。
「トリグル」
それを彼女が後ろから呼び止める。
「うん?」
ちらりと振り返れば、月明かりが逆光になってナルサスの表情は見えなかった。
「待っててくれてありがと」
見えなかったけれど、にこりと笑ったのがわかった。
「……薬飲んで寝ろよ」
「はあい」
まるで子どものように返事をして、ナルサスがバルコニーから出てくるのがわかる。
けれど、トリグルは振り返りもせずに歩いた。
隣り合わせの部屋の片方へと、互いに消えた。