トリック・オア・トリート 3.イスー

 すとん、と地面に足がつくと同時に、穏やかに流れる風が、真っ直ぐに切りそろえられたイスーの髪を揺らした。

 誰もいない。
 静かな場所。
 ウェスティカ、123区、開発時期、未定地域。
 ここで。

 イスーは、そこに無造作に横たわる、ありえない色の法衣の男を見下ろした。
「……ここで、ポリスが来たら、あっという間にお縄なんだが」
 だが、宇宙警察は来ないだろう。
 今頃彼らは、121区を捜索しているに違いない。
 そこにいると思って?
 いや、あるいは、いないとわかっていても。
 おそらく彼らには、今、それしか手がかりがない。

 穏やかに風が吹いて、翻されるのは。
 イスーの瀑布のごとき真っ直ぐの銀の髪と、無知なる学生の証の白い法衣。
 無論、この少女が無知であるなどと、そう思うのは法衣の色に惑わされた彼女を知らない輩だけだ。
 否、それさえも違う。
 この法衣を身に纏うことが出来るのは、ユニバーサル・ユナイテッド・ユニバーシティ、最高の学術機関、通称『U.U.U.』に入学できたものだけだ。
 それだけで、彼女は優秀だという証明になる。
 が、白の法衣を纏っているのは、裏を返せば、まだ、ただそれだけだ、ということにもなるのだが。
 白の法衣は学生の証だ。
 通称ユニで学問に勤しむ、無垢なる期待の星の証。
 やがて、黒く色染まる前の、束の間の天使たち。

 そう思うのは、イスーだけだろうか?

「んー……」
 イスーが見下ろす前で、ユニの同期が寝返りを打った。
 わけありで追われる身でありながら、まあなんとものんきに昼寝などしている。
 イスーがここにいても、ちっとも目を覚まさない。
 それは、人の気配さえわからない愚か者なのか。
 あるいは、害意がないことを見抜いた強者なのか。
 紙一重だが、どちらでも良かった。
 イスーは、知っている。

「……イスー?」

 むにゃ、と子どものように無邪気に顔を上げた男は、イスーよりひとつ年上だ。
「お目覚めのようで」
「うーん……」
 いや、まだ眠りの淵にいるようだ。
 くうぅっと猫のように伸びをして、再びやわらかい草の上で寝返りを打つ。
 起き上がる様子のない男に、イスーはそこへとしゃがみこんだ。
「なんだ、疲れているのか?」
「うんにゃ、そんなことはないよ?」
 ごろりん、と転がって、頭を上げる。
 地面に頬杖をついてイスーを見上げた男は、ユニの法衣の模造品を纏っていた。
 いつ見ても思うのだが、これが彼でなければ、とんだ道化だ。
「まあ、あなたが疲れている、というのは、確かに想像つかないが」
「うんうん。疲れるまでなにかに取り組んだりとか、しないからね」
 自分でさらっと言ってのける。
 ふっ、とイスーは小さく笑って、しゃがんだ自分の膝に、片手で頬杖をついた。
「それで。今回のはどういう娯楽だ?」
 ポリスあたりが聞けば激昂しそうなことを、イスーはさらりと言ってのける。
「ほえ? いや、別に?」
 この回答に、怒るなと言うほうが、無理かもしれない。
「イスーこそ、なんでここに?」
 ポリスが探し回っている男の居場所を、いともあっさり見つけてやってきたこの少女に、投げかけられる疑問はちょっと論点がずれている。
 けれど気にする当事者たちではない。
「いや。たまたま放送を見てな、あなただと思って。
 だからこの近くに来るのを待っていただけだ」
「来なかったら?」
「そこまでだろうな」
「ふーん。イスーは最近はこの辺にいるの?」
 小首を傾げて友人の近況など尋ねる。
 ポリスが今も自分の居所を探しているなんて、そんなことはどうでもいいように。
「このあたりは未開発地域だが、星としては古いんだ。研究対象としてはとても興味深い」
「はああ。なるほどねえ。それじゃ、さ。こんなの知ってる?」
 にま、と笑って、男が手のひらを突き出した。

「トリック・オア・トリート!」

 一瞬きょとんとしたイスーは、けれど差し出された手をぺちんと叩いて、立ち上がる。
「菓子なんかない。悪戯できるならやってみろ」
 友人の答えに、男は嬉しそうに笑った。
「あっはっは! さっすがイスー! 答え、最強!」
「そんなの、どこで覚えた」
「ついさっき。ディール・ティールで通りがかりの女の子に。
 なんかさ、オレンジ色って意味があるの?」
 いいながら、そのありえないオレンジ色の法衣を払って立ち上がる。
 すると視線の高さが逆転する。
 イスーも彼も身長は標準だが、だからイスーの銀の頭は彼の肩くらいまでしかない。
「ランタン、じゃないか」
「ふーん?」
「このあたりじゃない。サウセリアにあった古い文化がこの辺に飛び火した名残りだ。
 もとは万聖節の前夜祭だ」
「万聖節ってなに?」
「聖人の祝日の一つだ。その宗派ではその日が一年の始まりで、その前日、つまり一年の最後の日には、死者の霊や精霊が彷徨い出ると言われ、その魔よけのためにランタンが焚かれるんだ」
「ふんふん?」
「そのランタンが、蕪とかカボチャをくりぬいて作られる……ようになったのは、また時代が変わるらしいがな」
「あ、俺ってば、カボチャ色?」
「そういうことだろう」
 なるほどねー、と納得している。
 何をしているんだかな、こいつは、と思わなくもない。
 が、まあ、それが彼なんだろう。

「で、ジャック・オー・ランタン殿」
「あはは。ランタン持ちの男ってか? うん、なに?」
「カボチャのランタンをそう呼ぶんだ。で、あなたはこれからどうするの?」
「うーん、さあねえ? どうしよう。
 別に予定はないんだけどさ、まあ、もうちょっと追いかけっこをしてもいいかなーなんて」
 迷惑な話を、にかっと笑ってさらっと告げる。
「……楽しそうだな」
「そっかなー?」
 るんるん、と言いそうな勢いで答える。
 楽しそうだろう。
「ポリスの連中、いつもどおりのような、そうでもないような、奇妙な感じがするんだが、なぜだ?」
 ここに来た理由を、イスーはやっと口にした。
 別に知らなければそれでいいが、ちょっと気になっただけのことだ。
 今回のポリスは、対応がだんだん……良くなっていく。
 そう思った。

「大正解! そう、ポリスじゃなくてさ」
 ウインクする友人に、ああ、そうか、と思った。
「なんか偶然居合わせただけっぽいんだけどさ」
 楽しそうに話す。
 彼は、競い合うのが、大好きだ。
「知恵比べしてるの。今期のミドリと」
 そして負けるのが大嫌いだ。
 だから、彼はミドリを着ない……のだろうか?
 イスーはそこのところは、よく知らない。
「今期のミドリ、と、去年のミドリが知恵比べ?」
 すると彼はちょっとだけ嫌そうな顔をした。
「俺のことミドリって言うなよ。似合わないし。おまえだって着てないじゃん」
 ミドリとは、ユニの総合成績三席に与えられる、深緑の法衣のことだ。
 通常色付きとか、三席とか言って、異次元のような目で見られるが、当事者にとってみればせいぜい「ミドリ」程度でしかない。
「あなたは、似合わないから着ないのか?」
「そだよ?」
 確かに、赤味がかった髪と瞳に、深緑はちょっとちぐはぐな感じだが。
 似合うとかそういうものではない。
 その色の法衣を与えられていること自体が名誉である……と、普通は考えられる。
 イスーだって、まあ、人にそう言える立場ではないが。
「イスーはなんで着ないの。あんたは自分の法衣、似合ってると思うけど?」
「似合うかどうかが問題じゃない。わたしは修行中の身だから白でいいんだ」
「変なの」

「オレンジの法衣のロンドに言われたくない」

 きっぱりはっきり言い返せば、彼は破顔した。
「あっはっは! そうだよねえ! まあ、いいんじゃないの、俺たちは三人揃って変人で!」
「……わたしは二人ほどじゃないと思うんだが」
 三人、とは、すなわち同期の三人だ。
 上から、色付きを与えられた三人。
 イスーは飛び級だったからひとつ年下になるが、ひとつ年上の目の前の三席と負けず劣らず、主席のやつも、まあ、変わり者だ。
 なにせ、三人揃って、卒業時の法衣を纏っていない。
 それに比べて今年の三人は、理想的な優等生が三人揃ったらしい。
 あまり、興味はないのだが。

「まあいいや。俺はそろそろ次行こうかなー」
「どこに行くんだ?」
「まだ決めてない。どこかお勧めがある?」
「あるもんか」
 ぽろんぽろん、と竪琴を爪弾く。
 さしずめ準備体操といったところか。
「あ、そうだ。エディが言ってたけど」
「……誰」
「今年のミドリだって。エドワード・トリスン。そいつのダチで、おまえの分野に近いやつがいるぜ?」
「……なぜ?」
「だって、トリック・オア・トリートの意味聞いたら、エディのやつ、友人が詳しいからって答えたんだぜ? そのダチが隣にいるわけでもないのにさ。
 てことは、俺とおまえみたいなもんだろ? 色付きかな? アオだったりして」
 興味がないといったのはついさっきだが。
 ほんの少しそそられた。
 が、なんだ、今年の色付きとなど、接点があるものか。
 だいたい。

「自分のことはミドリと呼ぶなと言うのなら、わたしのことはアオなんて呼ばないんだろうな、ロンド・M・アムドゥスキアス?」

 イスーが少し強い口調で言えば、意図を察したらしいロンドは肩をすくめた。
 話は、これで終わりだ。
 なにもユニの色付きの話がしたくて、ここに出向いてきたわけではない。
「これは失礼」
 ロンドはオレンジの法衣の裾をつまんで、演技みたいなお辞儀をする。
 吟遊詩人、だそうだ。
「そうだね。いいんじゃないの、オレンジのロンドと白のイスーで」
 言うと。
 竪琴を構えた。
「ばいばい、イスー。また会う日まで」
 一方的に別れを告げて、目を細めるイスーの前で、空気が揺れた。
 が、ほとんど風も起こさずに、空間は歪み、オレンジの男を飲み込み、そしてまた、静寂が佇む。
「……わたしがなにしにきたかなんて、気にしないんだな、ロンドは」
 もちろんイスーは、ポリスの手先などではなく。
 ただ友人が近くに来たから顔を覗かせただけだ。
 互いにこんなことをしているので、普通に会うことなどあまりない。

 イスーは白の法衣から羽ペンを取り出す。
 そして目の前に、そこにキャンバスでもあるかのように、見えない何かを描き出す。
 口の中でスペルを唱える。
 イスーは、空間干渉はあまり得意ではないのだ。
 ロンドのように一瞬で消えたりなど、出来ない。
 それでも、

 彼女は、ユニの第二席、深青の法衣を与えられた者だ。

 ふわ、と空気が一瞬持ち上がり、イスーの身体が飲み込まれる。
 彼女の姿が消えた後、ほんの少し奇妙な場が残っていたとしても、その後すぐに現れた濃灰色の制服の者たちには気づかれない。

 穏やかに流れる風が揺らすのは、ただ、柔らかい下草ばかりだった。