深海の孤独
「おい、エドワード」
名を呼ぶ声と同時に、研究室のドアが開いて、同期の友人が入ってきた。
「お帰りなさい、クレメント」
分厚い本から目を上げて、にこりと笑いかける。
そんなエドワード……エディに、クレメントはずいっと手を差し出した。
そこにころんと乗っていたのは、小さな石ころ。
否。
薄い青緑色の、透明な、宝石。
「……さすがですね、本当に持ってきてくれたんですか」
「おまえ、期待してたのか、してなかったのか?」
「もちろん期待してたに決まってるじゃないですか」
そして再びにっこり微笑む。
やれやれ、と言う顔をして、クレメントがもう一度、その手を突き出した。
「ほら、受け取れ。注文どおりの色彩度の藍玉だ」
「ありがとうございます」
エディは丁寧に彼の手から、宝石をつまみ上げた。
透けているようで、向こうが見えるわけではない青色は、澄んでいるのに底の見えない、海のような色だった。
「綺麗ですねえ。どうやってこれを?」
宝石は、ありふれているとは言えないが、宝石学研究室に行けばいくらかは手に入る。
それでも学生はそれなりの手続きをせねばならず、面倒なのだが。
「ツテだ」
「……妹さんの?」
「妹のツテだ」
「はあ」
ここ、心理学研究室に所属する同期のひとり、クレメント・ジークムントは、六人兄弟の上から二番目だ。
彼らのなにがすごいかと言うと、その一番上の姉から、一番下の弟まで、六人全員がユニ……ユニバーサル・ユナイテッド・ユニバーシティ、通称『U.U.U』に在籍、あるいは卒業生だということだ。
ひとりふたりならまだしも、双子の妹も含む六人全員が入学したという、秀才兄弟である。
で、これが面白いくらいに所属研究室はばらばらで、その友人ネットワークは宇宙のように広い。
エディが欲しいな、といった宝石を、たった一日で調達してきたその経緯を聞いたなら、きっとスペーストレインの路線図より複雑なんじゃないかと思う。
だから、そんなことは聞かない。
ただ、笑顔で返すだけ。
「ありがとうございます。大切に活用させてもらいます」
クレメントはうん、と頷くと、きびすを返して研究室から出て行った。
ざわめいていた後輩の女の子たちが連れ立って研究室を後にし、文献を読んでいた後輩も伸びをして出て行った。
今日はたまたま同期は誰もいない。
どこか別の研究室に行っているのだろう。
そして、だれもいなくなった自分の研究室で、エディは走らせていたペンを止めた。
丁寧に置かれた傍らの宝石に目をやる。
藍玉。海の色をした宝石。アクアマリン。
ペンを置くと、ペンごと文献やノートをごっそり腕で机の端に追いやる。
真ん中にその美しいアクアマリンを置いて、見つめた。
宝石には、力がある。
魔法使いが魔法を使うとき、それを助けてくれるさまざまな力がある。
だから魔法使いを志すものは、宝石学を避けては通れない。
エディはちら、と時計を見た。
時刻、つまりは太陽の位置。
ここはユニ、現在地。
季節、今は春。
ユニのあるセンタープラネットの四季は作り物だけれど、今はこれが世界標準。
確認したら机に手を伸ばす。
手に取ったのは、銀のナイフ。
トリスン家の家紋の入ったナイフは、エディの触媒だ。
「我は請う」
誰もいない研究室に、エディの柔らかな声が響いた。
「我らを生みし太古の母よ。我らを抱きし源の力よ。我、大地よりて、汝、大海に請う」
椅子に座ったまま、エディが銀のナイフを抜き放ち、すいっと水平に振った。
ナイフの刃の先で、何かがきらりと光った。
「静謐、清浄、聖なる凝りの扉を開かん」
簡易の召喚スペルが完成する。
その瞬間。
藍玉と呼ばれる宝石の欠片は、青と緑の光を放った。
エディは椅子に座ったまま、にっこりと笑った。
笑いかけた。
目の前に現れた、人、ならざる少女に。
左右の瞳の色が違う、と思った。
けれど、それはそもそも間違いで、彼女の瞳がぐるりと研究室を見回したときに気付いた。
あの瞳は、青にも緑にも、ときには透明にも見える。
角度によって見え方が違うのかもしれない。
「ここは、おまえたちの、いつもの場所ではないな」
そんな瞳の色は綺麗だけど、とても冷たい印象で、見た目を裏切らない硬質な声が発せられた。
「召喚学研究室にいらしたことがあるんですね」
ここがユニだと、魔法使いの卵が集う場所だと、宝石の精霊は知っている……のだろうか?
「べつに好きで行ったわけではない」
冷たい返事が返ってくる。
見た目は美しい少女のようだが、冷たい、冷たい印象しか、持たない女の子。
いや、アクアマリンの、精霊。
「でも、貴女を呼び出したその学生は、契約しなかったのですか? 召喚学研究室でわざわざ呼び出しておきながら?」
エディがふと、思いついて小首を傾げると、彼女は青と緑の瞳を少し驚いたようにエディに向けた。
「わたしが人間と契約しているかどうか、おまえになぜわかる?」
まるで、どこまでも深い海のような双眸が、エディに向けられる。
それはとても深く、深くて。
「さあ、どうしてでしょう」
にこり、と笑ってエディは彼女を見返した。
「アクアマリンの精霊さん。それでは僕と契約しませんか」
優しい笑顔で、笑っているようで、その実エディの瞳は笑ってなどいなかった。
真剣な、まなざし。
ユニの友人相手には見せないような、強いまなざし。
けれど優秀な魔法使いの卵でもあるのだ。
エドワード・トリスンは。
青のような緑のような、海の色をした精霊は、あからさまに怪訝そうな顔をした。
「契約だと? わたしが? おまえと?」
「いけませんか? 大丈夫です、僕はちゃんと召喚ランクAを持っています」
「おまえたちのルールなど知らない」
「では、なにがご不満ですか?」
精霊を見返すエディは、相変わらず椅子に座ったままだ。
机の上に置かれただけの宝石は、僅かに光を放っている。
「……ここで?」
「僕たちのルールなんて、貴女には関係ないのでは?」
「おまえは相当な馬鹿か酔狂か? 魔方陣ひとつない、結界ひとつない。こんなところに呼び出されたのは初めてだ」
「そうなんですか。それは今まで運が悪かったですね」
さらっと言った言葉に、海色の精霊は不思議そうな顔をした。
「運が悪い? どうしてそうなる? 魔法使いたちはだいたい手順に口うるさい」
「ああ、まあ、そうですけど」
言って、エディはやっと、立ち上がった。
宝石を机の上に置いているものだから、精霊の彼女は机の上に浮いている感じだ。
そんな彼女に、エディは手を差し出した。
「とりあえず、そこではなんですから、おりませんか」
手を差し出されて、石の精霊はまたも怪訝そうにエディを見た。
その仕草がとても人間ぽくて、エディは思わず笑った。
「貴女は、よくこちらがわへ来られるのですね」
こちら側とはつまりここ、人間がいる場所だ。
精霊がわざわざ人の姿になって現れてくれる場所。
彼女たちの本来の居場所ではない場所。
「……どういうわけか、よく呼び出されるのでな」
アクアマリンの精霊はちょっぴりむっとした表情で答えた。
エディは内心納得した。
召喚学の教科書に書いてある。
比較的呼び出しやすい宝石、リスクの少ない宝石、アクアマリン。
「呼び出されて、その都度来られるんですか?」
魔法使いの卵に。練習のために呼ばれて。
「もちろんその都度行くわけじゃないが、正しい方法で礼儀正しく呼ぶやつには、それなりに応えてやるものだろう」
冷たい印象とは裏腹に、案外。
「やさしいんですね」
エディは微笑んだ。
アクアマリンの精霊は、驚いた。
「やさしい、だと?」
「でも貴女は、寂しそうです」
「……寂しい?」
なんだそれは、とでも言いたげな表情で、海の色をした少女がエディを見返す。
「貴女は……」
「それは人の価値観だ」
エディが続けようとしたのを、石の精霊はさえぎった。
その双眸は海のように深く、底なんて見えないくらい、暗かった。
「わたしに寂しいも優しいもあるはずはない」
「でも貴女はさっきから、驚いたり呆れたりしていますよね。それも僕からすれば同じことです。人間の持つべき感情で、石の精霊が表すものではありません」
きっぱりと言い切る。
練習のためにむやみに精霊を呼び出したりはしないけれど、エディだってランクAを持っているからには、それなりに召喚した回数はあるのだ。
精霊を見てきたのだ。
だから、知っている。
だから、言っている。
そうでなければ、こんなに彼女にこだわるものか。
「……おまえは、わたしと契約するために呼び出したのか? それとも喧嘩を売るために呼び出したのか?」
誰もいない研究室で、ユニでもトップクラスの優等生と、そして青い精霊が対峙している。
この場所には、けれど、魔方陣も結界もなにひとつない。
部屋のドアを開ければ、誰でも自由に入ってこれる、なんでもない空間だ。
「どちらでもありません」
エディはまた、にこりと笑った。
「ただ僕は、自分の欠点を補うために、アクアマリンという水の属性の石と相性があうかどうか手にしてみたのです」
「……おまえは大地の属性のようだな」
さすがは精霊というべきか、そんなことはお見通しのようだ。
「はい。手元に置いて僕の波長と不適合はない、ということは、わかりました」
「わたしと合わないやつというのは、あまりいない」
「そうですか?」
「相手が強すぎると、わたしが弱くなるだけだからだ」
「なるほど。でも僕は、それでは困るんです。僕は自分の欠点を補うために水属性の助力となるものを探しているんです」
エディは真剣な魔法使いの顔をして主張した。
石の精霊は納得したように頷く。
「正しいな。それで、わたしはどうだったのだ?」
なにに興味を持ったのか、アクアマリンは揺らめくような色の双眸をエディに向ける。
「貴女は、とても魅力的ですね」
心からそう思って、思ったままを口にする。
どうせでまかせを言っても通じる相手ではない。
「ほう?」
「なので貴女にお願いします。僕と契約しませんか?」
まるで、人間同士の取引のようだ。
本来魔法使いと精霊の契約は、魔法使いが命じる、精霊が応える、というのが一般的だが、エディはそんな用意はしていなかった。
精霊を縛るものなど、持っていない。
ここは、召喚学研究室ではない。
「僕と、契約してくださいませんか」
命令ではない。
エディは手を差し出して、机の上に浮かぶ彼女に呼びかけた。
アクアマリンは、その手を見つめて。
幾多と呼ばれてきたこのユニの、けれど初めて訪れたであろうこの部屋で。
初めて差し出されたであろう人間の手を、見つめて。
「……いいだろう」
はじめて、頷いた。
エディに差し出された腕は白く、まるで海から姿を現した人魚姫のようだった。