紫の雫
あるともない<はざま>の大地に足を着け、カーバンクルはふと、顔を上げた。
ここは自分たち宝石の精霊の本来の住処と、人間たちのいる世界のはざまにある空間だ。
その両者を行き来するための、渡り廊下のような場所といえる。
カーバンクルのように、あちら、すなわち人間側に行くのが好きなやつもいれば、永い生涯で一度もこちら、すなわち精霊側から出てこないやつもいるわけだけれど。
ま、そのへんは個人の好みの問題だ。
存在は精霊そのものでありながら、人間の姿を保つことが出来るこの中途半端な空間は<はざま>と呼ばれている。
いや、呼んでいるのは、こうして頻繁に行き来している一部の連中だけだと思うが。
その<はざま>のどこかに、自分でない誰かがいるような気がして、カーバンクルは顔を上げたのだ。
人間の中に、たまに勘がよくって、この<はざま>が見えるやつがいるが、それとは違うようだ。
と、思ったら、相手もこちらに気付いたようで、二つの存在は吸い寄せられるように、一瞬で相手と対峙した。
ここでは、距離なんて関係ない。
人間の癖に恐ろしく力の強い東の魔術師バァルが呼び出そうと、
人使いの荒い西の魔女アスタロトが呼び出そうと、
あるいは、世界の中心で温められている魔術師の卵、ユニの学生が呼び出そうと、
精霊は同じようにこちらからあちらへ渡ることが出来る。
そこに、物理的な距離感など、関係ない。
そりゃそうだろ?
今日は込み合ってるとか、ここは電波が悪いとか?
俺たちは人間の通信じゃないってえの。
「アメシスタかー」
なんとなく同属のような気がしたから顔を合わせたらビンゴだった。
紫に少し黒い星を散らした髪の、人間的には大人のお姉さんな彼女を見つけて、カーバンクルはにかり、と笑って見せた。
硬質な紫色の双眸と同じく、その表情は少しも動かないけれど。
「……カー」
だいぶ間があったあと、紫の彼女は、カーバンクルの名をつぶやいた。
「ひっさしぶりだねー? 元気してた? 今、行き? 帰り?」
友人にあったように軽く挨拶するが、先方から返事は帰ってこない。
けれど、カーバンクルは気にしない。
「あ、帰りか。行きなら寄り道しないよね」
返事はない。
けれど、相手をするつもりがないならば、さっさと消えてしまうこともできるのに、それもせず、紫の彼女、アメシスタはそこにいた。
「……そういう、カーは」
ぼそり、とつぶやくように言われた言葉に、カーバンクルは笑顔のまま首をかしげた。
「うん? 俺? ちょっと遊びに行ってただけ」
「……呼ばれたのでは、なく?」
「そ。ていうかー。ボクを呼ぶのって、どーすんだろうね? ほら、ボクは既に変種だし」
けろっと言い放つ。
アメシスタは僅かに瞳を細めた。
「……呼び出されたりはしないのか?」
「うん。だってほら、普通に呼び出そうとしたら、兄弟が行くし」
そういって、カーバンクルは額に嵌まっている赤い宝石を指先でこんこんと叩いた。
それは赤い宝石。
まるで血のような、凝ったような、それでいて深く美しい色の……ガーネット。
「……それで、向こうで、なにを?」
何に興味を示したのかよくわからないけれど、アメシスタは静かに訊ねてくる。
「ナニってことはないんだけど。ほら、人間て見てると飽きないよ?」
だから、見ているのだ。
ときどき、手を出してみたくもなる。
人間は、面白い。
「契約でも、なく?」
アメシスタは静かな、とても硬い表情のまま、訊ねてくる。
「あ、ボクね、そういうのニガテ。縛られるのってダメなんだよなー。
アメシスタはさ、それで、平気なの?」
何気なく、いや、むしろ自然にたずね返せば、
彼女はびくり、と身をすくめた。
この気持ちに呼応するかのように、額の深い色のアメジストがきらりと光った。
「わたし、は……」
一歩、二歩、アメシスタがカーバンクルから距離を取る。
カーバンクルはその距離を縮めたりは、しない。
「わたしは……自分で……」
なにか言いかけたアメシスタだけれど、その言葉が終わる前に、ふいっと姿が消えた。
その跡にきらりと光るものが、羽のように落下していく。
――自分で、選んだことだから。
カーバンクルに届かなかった言葉は、けれど想いとなってそこに漂う。
放っておけばどこまでも堕ちていく光の雫を、カーバンクルは手を伸ばして捕まえる。
小さな光の羽を目の前にかざせば、透き通るようで、けれど向こうの見えない深い紫色をしていた。
光の羽……紫の雫。
アメシスタの残した、涙の結晶だ。
人間の世界に持っていけば、ちょっとした価値が付くだろう。
カーバンクルはそれを手のひらで転がしながら、赤い双眸でそれを見下ろした。
「恋、ねえ……?」
ぽつり、とつぶやいた言葉は、誰の耳にも届かない。
人間のことは好きだ。
見ていて飽きない。
契約となると面倒だが、ちょっと手を貸して面白いことになるならオーケイというものだ。
けれど。
アメシスタは違う。
彼女を呼び出すのはたったひとりだけ。
彼女が応えるのは、たった、ひとりだけ。
相手がどんなやつなのか、カーバンクルは知らないけれど、アメシスタがそいつに恋焦がれているのは知っている。
アメシスタがほかのアメジストの兄弟と性質が異なる精霊になってしまったのも、
きっとそのせいだ。
いつか、彼女は宝石の精霊ですら、なくなるのかもしれない。
ならば彼女は何になるのだろう。
精霊でもなく、人間になれるはずもなく。
自分たちが永く永く存在し続けているのは、それが宝石に宿る精霊だからだ。
そうでなくなれば、根本から崩れてしまう。
なのに。
「いや、ま。アメシスタだって、わかってるよね」
ひょい、と肩をすくめて、カーバンクルはアメジストの欠片を懐にしまい込む。
紫の雫と一緒に、今あった出来事も、カーバンクルは胸の奥に閉じ込めた。