招かざる客人
「大地と太陽の恵みたらんことを。
水と風の、安らかたらんことを。
人と光の、麗しきたらんことを」
今朝は早くから、雪が降っていた。
今年はまた、冷えるらしい。
寿ぐ詞を唱えるのは、ユニ……ユニバーサル・ユナイテッド・ユニバーシティ、最高の学術機関、通称『U.U.U.』を、この秋二席で卒業したイスーだ。
その証である、青い法衣を身に纏い、儀式用の錫杖を振るう。
……イスーが、青の法衣を着ていた。
青の法衣の授与式に身に纏って以来、初めてのことだ。
イスーはその後、通常なら常に身に纏っているべくその通称『色つき』の法衣をまったく着ず、ずっと学生の頃の白の法衣を着ていた。アオのイスーと呼ばれるたびに、自分は『白のイスー』だと否定、主張してきた。
自分はまだ、修行中の身だから。
まだ、アオは着られない。
まだ、白でよい。
自分は、染まってはならないのだ、と。
「ノーティスを駆け巡る北風の神ボレアスよ、我らに昼の女神ダグの微笑を届けたらんことを」
儀式の手順なんて、確かに紙に書いてあり、読み上げるだけならもっと上手い人がいるだろう。
けれど。
錫杖に触れてよいとされるのは、ユニの法衣を纏うものだけ。
それが資格。
なぜなら。
「ノトスの訪れのあらんことを」
錫杖を振るう。
その杖先に風が起こる。
イスーが左手で、その風を糸のように絡めとり、編み上げる。
北風が、会場の中を渦巻く。
ぱっと離す。
風が止む。
手を掲げる。
するとそれを息を呑んで見ていた人々に、ふわりと暖かな日差しが降り注ぐ。
雪が一瞬静まり、ほんの一時、春が間違えて目覚めたような、そんな陽だまりが。
そして、イスーが手を下ろすと、そこは、いつもの町の空気に戻っていた。
まるで、季節を、天候を操るような。
ちょっとした風の精霊を操る魔法で、イスーの得意分野のひとつではあるのだが、この魔法の校外における使用許可は、召喚ランクA以上がなければならない。
もちろん現在のイスーは召喚ランクSであり、もっと派手なパフォーマンスを演出することもできたが、それはこの町には似合わない、と思った。
なので、学生の頃から今年で三年目。
イスーは変わらぬスタイルのまま、この点灯祭に臨んでいる。
ただ、今年違うのは。
昨年までは正真正銘白のイスーだったのが、次席卒業の証、深青の法衣を身に纏っていること。
イスーは、青い色が気に入らないわけではなかった。
主席の赤が欲しくて青が気に入らないわけではない。
三席のロンドのように、自分に似合わない色だと気に入らないわけではない。
それでも。
この町の人は、イスーが白の法衣を纏ったことを喜んでくれたのを知っている。
そして、青の法衣を手にしたことを、喜んでくれたのを知っている。
だから。
今日は、『青のイスー』なのだ。
自分が、ほんの些細なこだわりを、この一時仕舞い込めば、喜んでくれる人々がいる。
イスー自身より、誇りに思ってくれる人々がいる。
この町に、青のイスーがいる、と。
ユニは、いつの間にか、宇宙最高学術機関であること以上の価値を、意味を持って、今の世界に君臨する。
自分がいることで、こんな小さな町に得られる何かがあるのなら、それも悪くないかな、と思うのだ。
青のイスーは、黒と銀の錫杖を振るった。
誰も待つ人のいない小さな家に戻ると、イスーは一番にその青の法衣を脱いだ。
閑散とした奥の部屋の、古めかしい洋服ダンスに丁寧にしまう。
そして口の中でスペルを唱える。
この法衣には、誰も触れられないように。
そして、如何なることにも朽ちないように。
虫に食われるとか、黴が生えるとか、そんなレベルから、火災や水害にあっても、この法衣だけは守らなければならない。
それはユニの『色つき』に課せられた唯一の義務といってもいいだろう。
決してその緑の法衣を着ない同級生の三席のロンドだとて、どこかで同じように厳重に法衣を守っているに違いない。
そうして青の法衣を封印すると、いつもの白の法衣に袖を通す。
やはりこちらのほうが気持ちが引き締まる。
さて。
それでは年に一度の家の掃除でもするか。
イスーは井戸に水を汲みに行った。
「あー、やっぱり。イスー、おい、もう水道使えるぞー!」
声をかけられて、顔を上げると、ナーケとターファが揃って歩いてくるところだった。
「なんだ、ふたりして……。学校は?」
学習塾、ではあるが、学校に行けずにそこだけで学んだ自分たちは、あの場所を「学校」と呼んでいた。何気なく昔の呼び名がするりと口をついて出てしまった。
「今日の午前は臨時休業」
「……いいのか、そんなことで」
「大丈夫。理由はちゃんと言ってある」
「……一応聞いてみるが、なんと?」
「イスーの家の大掃除って」
井戸から汲み上げた水を手に、イスーはすたすたと歩き出す。
「あー、昨日の夕方におまえからの手紙、届いたぞ」
「そうか。来年はもう少し早くに出すよう気をつける」
追いかけてくるナーケに仏頂面のまま答える。
「んで、昨日のうちに頼んどいた。今朝一番にイスーの家の水道、使えるようにしといてくれって」
「……今朝一番に?」
雑巾を取り出したイスーは、ふと、顔を上げる。
「おまえ、気づかずに井戸水使ったろ」
「……別に、不便してない」
「あっそ。でも俺らの努力が無駄になるから、水道使え。大丈夫だおまえがいなくなったらすぐ止めとく。で、それ、貸せよ」
言うことをひとりでぺらぺら言って、さっさと雑巾を奪い取る。
井戸水はとにかく冷たい。それに手をひたして、つめてぇ、と悲鳴を上げる。
そんな幼馴染みをイスーは無表情に見つめた。
「イスー、窓も拭くだろ?」
いつの間にか離れていたもう一人の幼馴染みにイスーが顔を向ければ、ターファはこちらの返事など待たずに既に足場を作り始めている。
「おまえたち……なにをする気だ?」
「なにって」
雑巾を絞ったナーケがそれこそ不思議そうに振り向いた。
「掃除だろ? 年に一度の大掃除」
そして埃だらけの床を磨き始めた。
イスーが無口なのは、むかしからだった。
ナーケがひとりでぺらぺら喋り、ターファが突っ込みをいれたりフォローしたりするのを、ただ黙って聞いていた。
たいして相槌もしないが、ナーケは気にしない様子だった。
床はナーケが全部片付けてしまった。
窓はターファが全部磨いてしまった。
イスーはキッチンを掃除して、それだけだ。
この家はさほど大きくもない。
と、そのとき、るるる、と空気が振動した。
イスーが振動の発する方向に思わず目をやる。
「どうした?」
友人らはイスーの動きに不思議そうに振り返る。
それで、ああそうか、と思い出す。
彼らは、魔法の訓練を受けていないのだ、と。
「えー、と。ちょっと、電話だ」
「は?」
首をかしげるふたりにはそれ以上の説明はせず、イスーは触媒の白い羽ペンを取り出す。
送られてくる振動を拾い上げる。
「……わたしだ」
『ハロー、ハロー、白のイスー?』
聞きなれたふざけた声が、届いた。
なにもないところから声がして、ナーケとターファが驚いている。
「なんだ、ロンド。あなたとの約束は明日だろう?」
『わーかってるって。けどさ、俺、今ノーティスにいるんだけど』
「……なにをしているんだ、あなたは」
『ほら、イスーが珍しく帰るなんて言うから』
「だからなんだ」
『ノーティスってどんなところなんだろうと思って』
だから、なんだ。
ユニの同期の性格は、いまひとつ理解できない。
思わず羽ペンでこめかみをはたくと、干渉回線がびりびり鳴った。
『わ、なにしてんだよ』
「それで、わたしに何の用だ」
『トレイン乗ってー、バス乗ってー、そこまではいいんだけど、その先がわかんなくってさー』
「……は?」
『だから跳ぶからそっちに目印立ててくんない?』
「て、どこにいるんだ、あなたは!?」
『えーっと、ノーティスの18区?』
がくっと肩を落とした。
どうしてこの区画にいるんだ、この人は。
『頼むよイスー』
「……帰れ」
『えー! ……って、あれ? そっち、なんか立て込んでたりするの?』
適当で、ふざけていて、真面目にやっているのかと疑わしいことこの上ない男だが、頭は悪くないのだ。もちろんユニの三席である、という事実もさることながら。
イスーはちら、と同席している友人らに目をやった。
それに気づいたナーケとターファが顔を見合わせた。
「もしかして、イスーの彼氏?」
「断じて違う」
ナーケの問いかけに即答で返す。
『あ、側に誰かいるねー? 切ろうか? 待つよ、俺?』
待つんじゃなくて帰れと言っている。
「来てどうする。あなたの好きそうなことは、ここにはないぞ」
『あれ? お祭りがどうとか言ってなかった?』
「それなら今朝すんだ」
『えー』
「それに、わたしの町は祭りじゃない。儀式だ。祭りなら1区に行ってくれ」
『えー、えー!』
近くて遠い場所でロンドが喚いている。
どこにいるのか知らないが、随分近いところにいるようだ。
『それにしてもさー、この区画って、魔法使いいねーの?』
ロンドが、さらっと言ったので、イスーは、ああ、と頷きかけてはっとした。
こいつは、こいつは今……。
「ロンド? おい、今、どこにいるんだ……!?」
『ほえ? だから18区の、えーっと、バス停から歩いて適当に進んだところ』
なんでバス停、とちょっと思ったが、それよりもイスーは頭を抱えた。
バス停があるということは、この区画でも中心部なのだ。
そしてロンドは今、目に見えない回線をつないでイスーと話をしている。
魔法使いたちのこの会話は、魔法を知らない者からみると、かなり奇妙だろう。
それを、歩きながら……。
「ロンド! 今すぐ跳べ!」
『あ、ホント? じゃ、行くよー』
能天気そうな返事を待ちもせず、イスーは回線を自ら断ち切ると、羽ペンを持った手で大きく円を描いた。
さっと目の前に、見えない魔方陣を結ぶと。
「さすらいの吟遊詩人、ロンドさまご到着〜」
すとん、と派手な出で立ちの男が現れた。
「うわあっ!」
その出現にナーケとターファが声を揃えて驚く。
「お? あれれ? これはこれはお初にお目にかかります。魔法使いをご覧になるのは初めて?」
わざとらしく優雅なお辞儀などしてみせるロンドを、イスーは後ろから睨んだ。
「ふざけてるんじゃない、ロンド」
「えー。っていうか、なんでイスー、そんなに怒ってるの?」
腕を組んだイスーは、こめかみがぴくぴく震えている気がした。
そしてびしっと自らの羽ペンを同期の男に突きつける。
「いいか! 二度とその格好でこの区画に入るな!」
「ほえ?」
きょとんとしたロンドは、そしてまじっと自分のローブを見下ろした。
その、ユニの法衣を真似ただけの、道化のようなオレンジ色の法衣を。
「でも、俺、『オレンジのロンド』だし」
「なら二度とこの町に来るな!」
「う、うわー。イスー、怒ってる……」
イスーはくるりと背を向けると、驚いて目をまん丸にしている幼馴染みに向き直った。
「……す、すまないな、こんなやつで」
「え? あー。えっと。ユニの友だち?」
「…………一応」
「それでさ。ここ、どこ?」
ちっとも反省してなさそうなロンドが、窓から外を覗きつつ訊ねてくる。
「わたしの家だ」
「へー……って、イスーの家!?」
「わたしに家があってはおかしいか」
「や、そうじゃないけど。で、そちらさん方は? 彼氏? ふたりもいんの?」
イスーは再び脱力した。
軽く両手を広げて、相手なんかしてられるかと仕草で示す。
そして掃除したばかりのキッチンを眺めて、また、溜息をひとつ。
「イスー? どうかしたのか?」
ターファが少し心配そうに声をかけてくれる。
それにイスーは機嫌悪く振り返った。
「手伝ってくれたふたりに食事をと思ったんだけど、どっかの道化のおかげで気力がなくなった。料理するの、魔法でぱっぱとやってもいいか」
「え? ああ……」
顔を見合わせ曖昧に頷くふたりの前で、イスーは腕を動かした。
すると、しまってあった、昨日買った食材がふわふわと顔を出し、イスーの指の動きにあわせて調理されていく。
そんなイスーは無表情。
見つめるナーケとターファは初めて目の当たりにする魔法に呆然。
食材を全部鍋に入れて、水を入れて、指を鳴らして火をつける。
そして空気を凝縮し圧力をかける。
ぽろん、と。
背後で竪琴がなった。
驚いて振り返ったナーケとターファは、さらに驚いた。
オレンジ色の法衣を着た夕焼け色の男が、部屋の隅に、浮かんでいたのだから。
「タイマーがわりに、三分間のセレナーデいきまーす」
ぽろんぽろん、と。
竪琴が紡がれる。
美しい音色が響く。
ロンドの性格からこの音が生み出されるのが不思議なくらい、心地よい。
それを聞いているのかいないのか、イスーは集中したまま動かない。
ぽろん、ぽろん、と。
どこか切ない音楽が、流れて、やがて止まると、待っていたかのようにイスーが顔を上げた。
自ら歩いて鍋により、蓋を取り上げる。
すると良い香りが溢れた。
「お、うまそーじゃん」
「……だがこれはわたしたちの昼食だ。あなたのはないぞ」
「え、ええー!?」
抗議するロンドを無視してイスーが腕を上げると、その手に皿が現れる。
数分で出来上がったシチューは、けれどまるで一晩煮込んだようにこってりと出来上がっている。
「そんなー。タイマーやったげたじゃん」
「頼んでない」
「イスーったら移動系の魔法苦手とか言いつつ、けっこー駆使してるじゃん」
「自分の家だからな。褒めても駄目だ」
「オレンジだからダメなの? でもイスーだって白じゃん? いつもどおりじゃん?」
シチューをよそってテーブルに運ぶ。
そしてにやり、とロンドを振り返った。
「今は白だが、今朝は青だったからな。あなたも緑を着たら許してもいい」
「え……?」
きょとんとしたロンドに、イスーはつんと座る。
ミドリ? と幼馴染みたちが顔を見合わせる。
ロンドが。
「い、イスーが、青の法衣を着たー!?」
……喚いた。
「うるさいな」
「マジで!? なんで脱いじゃったの!?」
「用が済んだからだ。もう封印した」
「早っ! てか俺の法衣も封印されてるし!」
「だろう? じゃああなたはそこでおとなしくしていろ。招かざる客だ」
「酷いよ酷いよー」
「煩い。封印の檻に閉じ込めるぞ」
「えー!」
喚くロンドに顔をしかめて、それから、思いついてイスーは顔を上げた。
振り返ったイスーに、ロンドがなによ、と引きつる。
「一曲所望する。昼食に似合うのを頼むぞ」
背後で、曲をと言われて弾けない音楽家がいるだろうか、とか言っている道化はほっといて。
「すまないな。あれはほっといてくれ。これは今日のお礼だから、食べてくれるかな」
幼馴染みの三人は、竪琴の生演奏つきの少し遅い食事の時間を迎えた。